NewsCafe-社会ニュースより

メモ「寒いから」セーター棺に=宮城で土葬


22日午前、東松島市で東日本大震災の犠牲者の土葬が始まり、故人との別れを惜しむ遺族ら。



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棺のふたを開け、持ってきた花をちぎってまく姿や、「寒いから」とセーターを脱いで遺体に掛ける女性も見られた
(22日 12:21)[時事通信社]




メモ並んだ犠牲者のひつぎ=大地震


スポーツ施設に設けられた遺体安置所に並べられた地震、津波犠牲者のひつぎ。



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東日本大震災は18日、発生から丸1週間を迎えた。

警察庁の午後2時時点のまとめで、死者は6539人となった=18日、宮城・利府町
(18日 19:33)[時事通信社]




メモ粉ミルク6000缶不足=被災2県の周産期医療

東日本大震災の被災後も現地に残り、周産期医療を続けている岩手、宮城両県の医師らが、計6000缶の粉ミルクなどを求めていることが16日、日本産科婦人科学会など3団体の緊急調査で分かった。

学会側は不足する物品をリストにまとめ、厚生労働省に要望書を提出した。
(17日 02:02)[時事通信社]




メモ住民台帳すべて流失=職員2割超が安否不明―津波にのまれた陸前高田市・岩手

東日本大震災で、市庁舎が大津波にのみ込まれ壊滅的被害を受けた岩手県陸前高田市。

住民基本台帳や行政文書が全て流され、行政機能回復の見通しは全く立っていない。

対策本部は、20人も入れば身動きが取れなくなるような給食センターの事務室に置かれたが、机7台にパソコン6台。

衛星電話2台で県など関係機関と連絡を取り合っている。

同市の菊池満夫企画部長(58)によると、一部4階建ての本庁舎は最上階まで津波にのみ込まれた。

「堤防越えたぞ」
「線路越えたぞ」。
絶叫する防災無線が聞こえ、菊池さんらは屋上に避難し助かった。


無事だったのは124人。

うち職員が76人だった。

しかし、全職員約300人の2割を超える70~80人が行方不明だ。


災害時に中心となる防災対策室は本庁舎2階。

室長ら4人のうち3人は安否が分からない。

菊池部長は「室長も他のみんなも真面目な人ばかり。最後まで2階に残り情報収集していて津波に巻き込まれたのだろう」と無念さを口にする。

災害時にどの課がどう動くのかを記した地域防災計画も喪失した。

高台にある給食センターが災害対策本部となったがスペースは1室のみ。

自衛隊や消防、警察といった関係機関との調整会議はシャッター付きの車庫内で行われている。

被災から7日目の17日までに、県や隣の大船渡市から計13人の職員が派遣されたほか、テレビや電源が使え、会議室にもなる国土交通省の対策本部車も到着した。


陸前高田市は今月末に退職予定だった職員に今後の協力を求めたほか、避難所で活動している職員らを本部に呼び戻す。

菊池部長は「行政には会計年度というものがある。それまであと15日しかない」と話した。
(17日 05:18)[時事通信社]




メモ周辺県に広がる不安、困惑=「受け入れるには多過ぎる」―福島原発の避難者


福島県に接する茨城、新潟、栃木など各県に、福島第1・第2原発の避難対象地域を逃れた住民が押し寄せている。

福島県災害対策本部によると、対象地域内の住民は7、8万人。

受け入れ側各県の態勢も十分とは言えず、不安や困惑が広がる。

茨城県は13日に政府の要請を受け、約1万5000人の受け入れを決定。

県原子力安全対策課によると、全員を体育館などに収容できる見込みだ。

しかし、対象地域以外の住民からも「避難所に入れるか」などの問い合わせが多い。

警察庁によると、16日夜時点で県民約7900人が既に避難生活を余儀なくされている。

「うちも被災地。避難者がこれ以上増えたら避難所をやりくりできるか」と不安をにじませた。

2004年と07年に大地震に見舞われ、多くの犠牲者や被災者を出した経験を持つ新潟県。

しかし「県外からの大規模な被災者受け入れは初めて」(県災害対策本部)という。

16日夕時点で、福島県などから約2700人が避難。


「放射能が心配で福島へは当分戻れない」と、長期の滞在先を探す人が多い。


県内に仮設住宅を建設し入居してもらう案も出始めており、担当者は「長期的に受け入れられる施設をどうするかが課題だ」と指摘した。

栃木県には、準備が整う前の15日朝ごろから避難者が殺到した。

県消防防災課によると、16日夕で福島県からの避難者は約1000人。


県は混乱を防ぐため、那須町の道の駅に開設した福島県の避難者向け相談窓口に限定して避難所を案内しているという。


福島県に近い栃木県那須塩原市のビジネスホテル従業員は「この時期はあまり混まないのに、原発事故直後からものすごく忙しくなった」。

15日朝から16日未明まで予約電話は鳴りやまず、部屋は20日まで埋まった。

直接ホテルを訪ねたものの宿泊できなかった人も100人以上おり、多くは近くに車を止め車内で夜を明かしたという。

同課職員は「(対象地域の住民の数は)受け入れるには多過ぎる」と声を落とした。(17日 05:17)[時事通信社]



メモ道切り開き、命つなぐ=避難者リスト手に町役場へ―孤立の窮状伝える―宮城・南三陸


東日本大震災で大津波の被害を受けた宮城県南三陸町の戸倉地区。

道路は寸断され、1週間を過ぎても陸路での物資搬入が難しい。

農業後藤一磨さん(63)は大津波の後、避難者リストを携えて「道なき道」を歩き、町役場に情報を伝えた。

戸倉地区は周囲との連絡が取れず、完全に孤立していた。

後藤さんは自宅近くの高台にある神社に避難した後、県の宿泊施設「自然の家」に身を寄せた。

コメなどの備蓄食料はあったが、避難した約300人の中には、病人や薬を必要とする人もいた。

「ここにどれくらいの人がいるのか、どんな状態なのか知らせなくてはいけない」。

後藤さんは地震から3日目の13日朝、町の災害対策本部が置かれた対岸の体育館に向け、避難者の名簿を手に出発した。

「みんなには危険と止められたが、そうしないと始まらないと思った」。

仲間2人を先導し、なたを使って道を切り開いた。

橋が落ち、道路の一部が流された約6キロの道無き道を歩いた後、途中から仲間が乗り捨てた車で、町役場の機能が移転した体育館に。

佐藤仁町長らに苦境を伝えることができた。

帰り道、自然の家に自衛隊のヘリコプターが降りるのを見た。

「どれくらい役に立ったのかは分からない」と話すが、翌日には病人が搬送され、支援物資も空路で届くようになった。

行動力は宮城県議を務めた父の三郎さん譲り。

自然の家は、三郎さんが誘致に尽力していたという不思議な縁もあった。

一磨さんの妻美代子さん(62)は「おじいちゃんが造ってくれて、本当にここがあって良かった」と声を震わせた。


電力、ガスの復旧はまだだが、1日3食の食事はできるという。

「一段落というか、生き残った人の当面のライフラインはできた」。

後藤さんの切り開いた道が、命をつないだ。
(20日 04:43)[時事通信社]




ペンギン今、本当に不足しているもの。



(1)棺

(2)ミルク

(3)被災者への「こころづかいと思いやり」

(4)情報

(5)火葬場