メモ警察庁長官銃撃事件が時効=警視庁


国松孝次警察庁長官(当時)=写真=が自宅マンションで銃撃され、重傷を負った事件は30日午前0時、殺人未遂罪の公訴時効が成立する。オウム真理教の組織的犯行とみて全力を挙げたが、実行役特定できず、真相は闇
(3月29日 15:40)[時事通信社]


メモ時効迎え「反省、教訓を」=国松元警察庁長官

警察庁長官銃撃事件が時効を迎えた30日、国松孝次元長官は「何としても解決したかったが、残念なことになった」と心境を話した。警察トップの立場でありながら銃撃を受けた事態には「誠に申し訳なく、一生忘れない」と語った。
(3月30日 13:47)[時事通信社]



メモ容疑者不詳で書類送検=長官銃撃で警視庁

国松孝次警察庁長官(当時)銃撃事件で、警視庁は30日、時効を受け、容疑者不詳のまま東京地検に書類を送った。
(3月30日 13:45)[時事通信社]



メモ警察庁長官銃撃を不起訴=東京地検

国松孝次警察庁長官(当時)銃撃事件について、東京地検は31日、殺人未遂罪の公訴時効成立により不起訴処分とした。警視庁が時効成立後の30日、「被疑者不詳」で書類送検していた。
(3月31日 16:02)[時事通信社]




事件は1995年に発生しました。



この年には、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、オウム真理教への強制捜査等の災害や事件が多くありました。



警察庁長官銃撃事件が、いとも簡単に発生するとは驚愕でした。



警察庁長官は警護対象外なのでしょうか?



あまりに無防備です。



そう言えば、つい最近も国家公安委員長が、不適切な(?)交際をしていた女性との写真をスクープされていましたが、狙っていたのがカメラではなく、銃器だったらと考えると肝を冷やします。



私が銃撃されて殉職しても、悲しむ人がいる位で(多分)、国政に何等の影響はないでしょうが…(苦笑)。



警察庁長官や国家公安委員長等の要職にある人は、然るべく警護対象として守るべきではないでしょうか?。



この事件は、初動捜査には刑事部ではなく公安部が当たったとされています。



当時は警視庁の刑事部は、オウム真理教の捜査に駆り出され手薄だったのと、オウム以外にも過激派や外国諜報機関の関与等も考慮された為かも知れませんが、初動捜査の成否がその後の事件解決に大きく影響します。



更に公安部等の公安関係部署は、捜査内容や情報を同じ警察内部であっても、他の部局には開示しないで自己完結主義です。



刑事部との捜査協力や情報共有もなされなかったのではないかと思います。



通常は行われる付近住民への聞き込み捜査や実況見分等も充分ではありませんでした。



私も今後の職務に生かしたくて、職権により精査しましたが、不備だらけでした。



時効になった事件の被疑者(今回は団体)を名指しで指摘しながら、解決が出来なかった。



自分達のトップの命を狙われ守り切れず、敵討ちも叶わず、時効になった事を厳粛に反省する事が肝要だと思います。



あっ、今日のブログの表題の「参院選に出馬します。」は嘘です。



今日はエイプリルフールです。



許してね。





NewsCafe-ウィキ百科事典より

警察庁長官狙撃事件(けいさつちょう-ちょうかん-そげき-じけん)は、1995年3月に日本の國松孝次警察庁長官が何者かに狙撃された事件。




経緯

オウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われてから
8日後の1995年3月30日午前8時30分頃、國松孝次警察庁長官が出勤のため
東京都荒川区南千住の自宅マンションを出たところ、
付近で待ち伏せていた男が拳銃パイソンまたはトルーパーの長銃身モデルと見られるを4回発砲。


國松はそのうち3発38口径のナイクラッド弾とされるを腹部などに受け、全治1年6ヵ月の瀕死の重傷を負った。


男は自転車で逃走し、現場からは、朝鮮人民軍のバッジ「三大革命赤旗勲章」、通称「赤旗前衛中隊バッジ」や大韓民国の10ウォン硬貨が見つかったという。


狙撃から1時間後にテレビ朝日に電話がかかる。


電話の声は國松孝次警察庁長官に続く次のターゲットとして井上幸彦警視総監や大森義夫内閣情報調査室長らの名前を挙げて教団への捜査を止めるように脅迫した。


國松は手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2ヵ月半後には公務へ復帰した。


銃を発砲した犯人は黒っぽいレインコートに白いマスクをし、黒っぽい帽子を被っていたとされている。




略歴


静岡県立浜松西高等学校卒業

東京大学法学部第二類(公法)卒業

1961年4月 - 警察庁入庁

1969年 - 警視庁本富士警察署長

1972年2月 - あさま山荘事件発生時に警視庁広報課長として派遣幕僚団に参加

在フランス日本国大使館一等書記官(-1977年6月30日)、
内閣官房長官秘書官事務取扱

警視庁第一方面本部長

1981年8月21日 - 警察庁警備局公安第三課長

1982年8月23日 - 警察庁警備局警備課長

1984年4月7日 - 大分県警察本部長

1985年8月7日 - 警察庁刑事局捜査第二課長

1986年8月18日 - 警察庁刑事局刑事企画課長

1987年6月16日 - 警察庁警務局人事課長

1988年1月22日 - 警視庁公安部長

1989年4月1日 - 兵庫県警察本部長

1991年1月11日 - 警察庁刑事局長

1993年9月10日 - 警察庁次長

1994年7月12日 - 警察庁長官

1995年3月30日 - 東京都荒川区南千住6丁目の自宅マンション前にて何者かに狙撃され、一時危篤状態(警察庁長官狙撃事件)

1997年3月31日 - 退官

1998年1月23日 - 特殊法人自動車安全運転センター理事長(~1999年8月31日)

1999年9月1日 - 特命全権大使(スイス)(~2002年12月17日)





人物

NPO救急ヘリ病院ネットワーク理事長、
損害保険ジャパン顧問、
日興コーディアル証券特別顧問・社外取締役、
丸紅社外取締役、
全日本剣道連盟顧問、
財団法人犯罪被害救援基金常務理事、
日本郵船監査役
などを務める。


前静岡県知事の石川嘉延、トヨタ自動車会長の張富士夫とは、東京大学で共に剣道部に所属する。

本富士警察署長時代、赤軍派による本富士警察署襲撃事件が起こり署長室に放火されるが、国松は隣の部屋にいて無事だった。

兵庫県警本部長に着任した際、同県警幹部が山口組の事務所を訪れ、「今度の本部長は偉くなる方だから、騒ぎになることするんじゃねえぞ」と言い渡したと伝えられている。

警察庁長官在籍中の1995年に警察庁長官狙撃事件で一時危篤状態となる。


オウム真理教事件が起こったことで「日本の安全神話の崩壊」などと報道された時期、体感治安という言葉を口癖のように語り、この言葉が浸透した。


DNA型鑑定を警察捜査に導入することに尽力した。