今日は群馬県多野郡上野村の御巣鷹山に慰霊登山をして来ました。
婚約者が殉職して、もう24年、でもまだ24年。
(18時4分)18番スポット出発。
(同12分)ランウェイ15〈当時〉からテイクオフ。
(同24分)スコーク7700緊急事態「エマージェンシー」「ハイドロ、プレッシャー、オールロス」。エレベーター〈昇降舵〉やエルロン〈補助翼〉も尾翼部分が破壊されて、ダッチロール〈機首が左右に揺れる〉やフゴイド〈機首が上昇下降する〉が発生。
(同31分)管制部から名古屋空港へのアプローチ進言するも羽田空港へのアプローチをリクエスト。
(同40分)ランディングギア〈降着装置〉を出し、空気抵抗で機体の安定や高度を下げる。
(同42分)当該機との交信を優先する為、当該機以外は別の周波数への変波を指示。
(同45分)米軍横田基地が飛行支援依頼の可否の為にコンタクト
(同47分)管制部と「アンコントローラブル」と交信。
(同53分)管制部から横田基地が「緊急着陸受け入れ体制が完了している。」と送信するが、「アンコントロール」と送信。
(同56分14秒)対地接近警報が鳴動。
(同56分26秒)衝突音が記録されている。
(同56分28秒)レーダーから機影がロストした。
当日の墜落日航機、ボーイング747SR―46(機体記号JA8119)の飛行スケジュールは、羽田空港と千歳空港間を503便、504便で運航。羽田空港と福岡空港間を363便、366便で運航。そして羽田空港と伊丹空港間を123便、130便として往復する予定だった。つまり5回目の飛行中に墜落しています。
日航123便のフライトプランでは18時00分出発し18時56分伊丹空港に到着予定であった。
乗客数509名。乗員15名。コクピットクルーは3名。副操縦士は機長昇格訓練中の為に機長席に、機長は副操縦士席にいた。この事は事故との直接的な因果関係はない。そして当時は航空機関士がいた。現在はコンピューターシステムで対応。客室乗務員は12名(男性1名、女性11名)。当日の航空機関士はJA8119(事故機)で363便と366便で乗務していた。フライトログに、機体に微妙な異変があると記載していた。副操縦士は他の経路で運航し2回目の乗務、機長は当日は初乗務であった。
該当機は1978年6月2日に伊丹空港で機体後部を接触し、しりもち事故を起こしている。1982年8月19日には、千歳空港で第4エンジンを接触する事故を起こしている。
(救難体制)
(19時3分)航空自衛隊百里基地から偵察の為に、第503飛行隊(当時)からF―4EJがスクランブル。当時は偵察飛行隊501飛行隊のRF―4Eはアラート体制はなく、翌日早朝に離陸して偵察飛行を行った。
自衛隊への災害派遣要請の依頼がなかなか出ない状況で入間基地、立川駐屯地、百里救難隊も捜索救助体制を取り、実際に進出もした。
日航機が迷走飛行していた時点で偶然付近を飛行中の米空軍のC―130がルート変更し後を追いかけて20時前後に墜落現場の位置を確認している。
自衛隊救難ヘリ〈V―107〉夜間捜索救難の為の暗視装置は当時の救難ヘリには装備されていなかった。厚木基地の米軍海兵隊の救難ヘリは暗視装置を装備していた。両機とも救難体制にあった。
米軍ヘリも救助態勢に入っていたが、在日米軍司令部から日本政府を通じた米軍の救助支援の可否を打診するも警察庁が辞退した。在日米軍が日本国内で救助支援をするには、日本側が許可しないと実施出来ない為に帰還命令を受けRTBした。自衛隊ヘリにも別の理由(インパクトがあるので記載出来ない)で帰投命令が出た為に当日の救助活動は出来なかった。自分の婚約者が、直ぐ真下にいるのに…。私は、制服の胸に着用していた特殊なバッジを外した。
その日の内に地上から捜索隊が出発。勿論、警察や消防、消防団なども懸命に捜索救助活動を行いました。
当時のBADGEシステム(自動防空警戒管制組織)にはエアーウェイ(航空路=空の道)の表示機能が無く、私物の航空路図誌を見ながらコンソールにグリスペンで記入した。
13日早朝から捜索救助活動が本格化した。先ほど別の理由と言ったが、安全性が確認出来たからだ。
当初は上野村の施設で遺体の検死、安置所になる予定であったが、諸般の事情で群馬県藤岡市の市民体育館に設置。第1小学校が臨時ヘリポートになった。8月14日に御巣鷹山に臨時ヘリポートを設営。遺体搬出が、本格化した。通常遺体、177体。遺体部位は約2080体、約400体は判明せずに同年12月に慰霊の園に合同納骨された。いまだに遺体が解らない行方不明の方が2名います。当時はDNA技術も今ほど確立されていないので、検死は困難を極めた。
当時の市民体育館は、解体されて今は公園等になっており慰霊碑があります。最初は通常遺体でしたが、遺体部位になり、色つきビニール袋も在庫が無くなり無色になったり、防臭マスクも無く悲惨な光景を目の当たりにした。その時の事が、今もよみがえって涙が出たり悪夢にうなされる。救助活動の遅れや体制の不備を批判されたが、あの犠牲を無駄にしない為にこれからも全力を尽くしたい。
現在はBADGEシステム(自動防空警戒管制組織)には、エアーウェイが表示される。
現場上空は救助ヘリ以外にもマスコミの取材ヘリが未秩序に飛行し衝突の危険もあり入間基地の飛行点検隊からYS―11FCが飛行管制を実施した。しかし交信周波数が別々であり連絡出来なかったり、指示を無視するマスコミも多く、操縦が不慣れで御巣鷹山の臨時ヘリポートも何度も破損していた。現在は事件や事故現場で官用機や民間機等での相互交信連絡用に緊急周波数や救難周波数とは別に、飛行援助通信周波数が設置された。更に当時は災害で出動した機関が直接的に連絡出来なかったが、警察、消防、自衛隊や海上保安庁などの防災機関の相互連絡通信用に防災相互連絡周波数が設置された。これは阪神淡路大震災や、その後の災害でも有効的に活用されている。残念な事に自衛隊や米軍が訓練中にミサイルやその他の飛翔体で誤射したとする説もあるが、圧力隔壁や機体にその形跡はないしあり得ない事です。私なりに調査したが、誤射説は100%ない。しかし事故調査委員会の圧力隔壁破断や機体の破損などに対する内容には疑問の箇所があり、何故再調査がなされないのか不思議です。尾翼付近は最も堅牢でフライトレコーダーやボイスレコーダーなども此処に設置してある。フェイルセーフ構造も尾翼付近の破損で油圧系統が総て作動しなかったと思います。御巣鷹山の520の墓標に恥じない様に生きていきたいと改めて誓いました。
婚約者が殉職して、もう24年、でもまだ24年。
(18時4分)18番スポット出発。
(同12分)ランウェイ15〈当時〉からテイクオフ。
(同24分)スコーク7700緊急事態「エマージェンシー」「ハイドロ、プレッシャー、オールロス」。エレベーター〈昇降舵〉やエルロン〈補助翼〉も尾翼部分が破壊されて、ダッチロール〈機首が左右に揺れる〉やフゴイド〈機首が上昇下降する〉が発生。
(同31分)管制部から名古屋空港へのアプローチ進言するも羽田空港へのアプローチをリクエスト。
(同40分)ランディングギア〈降着装置〉を出し、空気抵抗で機体の安定や高度を下げる。
(同42分)当該機との交信を優先する為、当該機以外は別の周波数への変波を指示。
(同45分)米軍横田基地が飛行支援依頼の可否の為にコンタクト
(同47分)管制部と「アンコントローラブル」と交信。
(同53分)管制部から横田基地が「緊急着陸受け入れ体制が完了している。」と送信するが、「アンコントロール」と送信。
(同56分14秒)対地接近警報が鳴動。
(同56分26秒)衝突音が記録されている。
(同56分28秒)レーダーから機影がロストした。
当日の墜落日航機、ボーイング747SR―46(機体記号JA8119)の飛行スケジュールは、羽田空港と千歳空港間を503便、504便で運航。羽田空港と福岡空港間を363便、366便で運航。そして羽田空港と伊丹空港間を123便、130便として往復する予定だった。つまり5回目の飛行中に墜落しています。
日航123便のフライトプランでは18時00分出発し18時56分伊丹空港に到着予定であった。
乗客数509名。乗員15名。コクピットクルーは3名。副操縦士は機長昇格訓練中の為に機長席に、機長は副操縦士席にいた。この事は事故との直接的な因果関係はない。そして当時は航空機関士がいた。現在はコンピューターシステムで対応。客室乗務員は12名(男性1名、女性11名)。当日の航空機関士はJA8119(事故機)で363便と366便で乗務していた。フライトログに、機体に微妙な異変があると記載していた。副操縦士は他の経路で運航し2回目の乗務、機長は当日は初乗務であった。
該当機は1978年6月2日に伊丹空港で機体後部を接触し、しりもち事故を起こしている。1982年8月19日には、千歳空港で第4エンジンを接触する事故を起こしている。
(救難体制)
(19時3分)航空自衛隊百里基地から偵察の為に、第503飛行隊(当時)からF―4EJがスクランブル。当時は偵察飛行隊501飛行隊のRF―4Eはアラート体制はなく、翌日早朝に離陸して偵察飛行を行った。
自衛隊への災害派遣要請の依頼がなかなか出ない状況で入間基地、立川駐屯地、百里救難隊も捜索救助体制を取り、実際に進出もした。
日航機が迷走飛行していた時点で偶然付近を飛行中の米空軍のC―130がルート変更し後を追いかけて20時前後に墜落現場の位置を確認している。
自衛隊救難ヘリ〈V―107〉夜間捜索救難の為の暗視装置は当時の救難ヘリには装備されていなかった。厚木基地の米軍海兵隊の救難ヘリは暗視装置を装備していた。両機とも救難体制にあった。
米軍ヘリも救助態勢に入っていたが、在日米軍司令部から日本政府を通じた米軍の救助支援の可否を打診するも警察庁が辞退した。在日米軍が日本国内で救助支援をするには、日本側が許可しないと実施出来ない為に帰還命令を受けRTBした。自衛隊ヘリにも別の理由(インパクトがあるので記載出来ない)で帰投命令が出た為に当日の救助活動は出来なかった。自分の婚約者が、直ぐ真下にいるのに…。私は、制服の胸に着用していた特殊なバッジを外した。
その日の内に地上から捜索隊が出発。勿論、警察や消防、消防団なども懸命に捜索救助活動を行いました。
当時のBADGEシステム(自動防空警戒管制組織)にはエアーウェイ(航空路=空の道)の表示機能が無く、私物の航空路図誌を見ながらコンソールにグリスペンで記入した。
13日早朝から捜索救助活動が本格化した。先ほど別の理由と言ったが、安全性が確認出来たからだ。
当初は上野村の施設で遺体の検死、安置所になる予定であったが、諸般の事情で群馬県藤岡市の市民体育館に設置。第1小学校が臨時ヘリポートになった。8月14日に御巣鷹山に臨時ヘリポートを設営。遺体搬出が、本格化した。通常遺体、177体。遺体部位は約2080体、約400体は判明せずに同年12月に慰霊の園に合同納骨された。いまだに遺体が解らない行方不明の方が2名います。当時はDNA技術も今ほど確立されていないので、検死は困難を極めた。
当時の市民体育館は、解体されて今は公園等になっており慰霊碑があります。最初は通常遺体でしたが、遺体部位になり、色つきビニール袋も在庫が無くなり無色になったり、防臭マスクも無く悲惨な光景を目の当たりにした。その時の事が、今もよみがえって涙が出たり悪夢にうなされる。救助活動の遅れや体制の不備を批判されたが、あの犠牲を無駄にしない為にこれからも全力を尽くしたい。
現在はBADGEシステム(自動防空警戒管制組織)には、エアーウェイが表示される。
現場上空は救助ヘリ以外にもマスコミの取材ヘリが未秩序に飛行し衝突の危険もあり入間基地の飛行点検隊からYS―11FCが飛行管制を実施した。しかし交信周波数が別々であり連絡出来なかったり、指示を無視するマスコミも多く、操縦が不慣れで御巣鷹山の臨時ヘリポートも何度も破損していた。現在は事件や事故現場で官用機や民間機等での相互交信連絡用に緊急周波数や救難周波数とは別に、飛行援助通信周波数が設置された。更に当時は災害で出動した機関が直接的に連絡出来なかったが、警察、消防、自衛隊や海上保安庁などの防災機関の相互連絡通信用に防災相互連絡周波数が設置された。これは阪神淡路大震災や、その後の災害でも有効的に活用されている。残念な事に自衛隊や米軍が訓練中にミサイルやその他の飛翔体で誤射したとする説もあるが、圧力隔壁や機体にその形跡はないしあり得ない事です。私なりに調査したが、誤射説は100%ない。しかし事故調査委員会の圧力隔壁破断や機体の破損などに対する内容には疑問の箇所があり、何故再調査がなされないのか不思議です。尾翼付近は最も堅牢でフライトレコーダーやボイスレコーダーなども此処に設置してある。フェイルセーフ構造も尾翼付近の破損で油圧系統が総て作動しなかったと思います。御巣鷹山の520の墓標に恥じない様に生きていきたいと改めて誓いました。