日本橋小網町にひっそりと店を構える、創業1874年(明治7年)の老舗蒲焼専門店『喜代川』。 ここは、渡辺淳一氏の小説『化身』に登場するうなぎやのモデルで、古い歴史を刻む、雰囲気ある佇まいだ。
土曜日の夜に予約をしていたぼくは、約束の時間にやや遅れながらも、お店の玄関に足を踏み入れる。
その刹那、
「ささっ、どうぞ。こちらへ」
優しい人柄が顔からにじみ出ている、5代目の若旦那が女将と共に2階の座敷に案内してくれた。 風情ある木造作りが、ぼくを異空間に誘う。壁には「化身」に登場するうなぎや“喜代村”の絵も飾られている。
「お足もと、気をつけてください」
女将が言う。
「あ、はい。それにしても雰囲気いいですよね」
女将は笑顔で会釈しながら、通されたのが、特別な座敷だ。
それは兼ねてから、若旦那に話してあった、3畳一間の『霧子の間』。
“霧子の間”?
その答えは、渡辺淳一氏の小説『化身』のなかにある。 『化身』の主人公・秋葉が、理想の女性に変貌させていく、元ホステスの霧子と、食べに行ったのが、喜代川をモデルにした鰻屋の”喜代村”。そしてこの座敷は、その霧子の名前をとって、”霧子の間”とつけられたという。しかも、『化身』を読んだお客さんが名付けたというから、興味は尽きない。
若旦那いわく、
「“霧子の間”を指定して予約する方もいらっしゃいますよ」
「自分もそのうちの一人ですね」
そんな“霧子”談義に花を咲かせながら、ぷりぷりの肝焼き、そしてさっぱり、うざくに舌鼓を打つ、ぼく。
それにしても、“霧子の間”は静かで落ち着ける空間だ。
「私自身、“霧子の間”でこれほど長くいたことはないんですが、本当に静かですね」
笑みを浮かべながら、そう若旦那は言う。 ぼくは笑顔で返しながら、運ばれてきた『うな重』に手をつける。 “秋葉と霧子はどんな思いで、うなぎを食べたのだろう”そんな想像をしながら、蒲焼をごはんと一緒にほおばる。
笑顔でほころぶ自分がいる。うまい。辛目のタレが口の中に広がる。ふっくら蒸され、ほど良い柔らかさ。まさに至福の時だ。
この“霧子の間”は『喜代川』のなかでも、特別な空間だ。東京にいることさえ忘れてしまい、情緒ある旅館に来た錯覚に陥る。
大切な人と是非、『喜代川』の“霧子の間”で鰻蒲焼きに舌鼓を打ってみてはいかがだろうか。
[データ]
『喜代川』
〒103-0016東京都中央区日本橋小網町10-5
TEL03-3666-3197
営業時間:11:00~14:00、17:00~20:00
定休:日・祝
[蒲焼店番付け表]
[外から見た霧子の間]