2003年~#♪
星野監督、2日前死去「おふくろ」に捧ぐV/復刻
[2016年9月16日10時21分] 日刊スポーツ
プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月16日付紙面を振り返ります。2003年の1面(東京版)は阪神タイガースの18年ぶりセ・リーグ制覇でした。
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<阪神3-2広島>◇2003年9月15日◇甲子園
星野仙一監督(56)が、涙をこらえて、宙を舞った。阪神が18年ぶり4度目のセ・リーグ制覇(1リーグ時代含め8度目)を果たした15日、星野監督の母敏子さんが大阪府内の病院で肺炎のため13日に死去していたことが分かった。91歳だった。14日の通夜で最後の別れをした星野監督は、この日午前中の葬儀・告別式を欠席し、広島戦の指揮を執った。ナインも、甲子園で64年以来39年ぶりの優勝に歓喜する5万3000人の大観衆も、誰も知らなかった。妻を、初孫を、そして母をも亡くしながら、勝利を追求した闘将の、それは運命だった。
星野監督が愛する者たちの顔を思い浮かべながら、甲子園の夜空に舞った。7度、舞った。
球団新記録の81勝目で優勝を決めた。最後までゲキを飛ばし続けた。広島を倒したサヨナラの場面も、赤星に「内野が前に来てるぞ。思い切り行け!」と指示を出す。迷いなき指導力で、優勝をもぎ取った。
「しんどかった」。優勝決定後の第一声。心に隠した悲痛な思いがあった。2日前の13日午後6時35分、母・敏子さんが大阪府茨木市内の病院で肺炎のため死去した。中日とナゴヤドームで戦っていた最中だった。通夜は14日夜に営まれ、星野監督はデーゲームの中日戦を指揮した後、名古屋から帰阪。人知れず母の亡骸(なきがら)と対面した。「なんで優勝まで生きとらんかったんや…」。そう話しかけ、泣いた。
父親が早く亡くなり、女手1つで育ててくれた。体調を気遣い7月27日に車いすを購入したが、1度も乗らぬまま、約1カ月前に入院。そのまま帰らぬ人となった。息子への愛は人一倍で、選手時代も住居近くの駅前に張られている星野監督のポスターを、自転車で見にいくのが日課だった。「仙一に会うてる気がするんや」と話していた。
事実を隠し、告別式も欠席して、最後の勝負に臨んだ。つらかった。泣きたかった。だが、天国で待っていてくれる人が新たに増えたと思うしかなかった。
6年前に妻、そして5年前に初孫を亡くした。
愛妻・扶沙子さん(享年51)は97年1月に白血病で死去した。翌98年の暮れ。待望の初孫を授かったが、悲劇は再び起こる。妻が逝って、初めて生まれた掛け替えのない命も消えた。乳幼児の突然死。出生届を出した翌日のことだ。
「なんでオレの大事な人ばっかり…。ヨメさんのときは7年の闘病生活があったから覚悟はあった。でも孫は……。言いようのないぐらい苦しかった。今でもかわいい孫を抱いたジイさんの姿は直視できん」。あまりの悲しみに当時、公にすることを控えた指揮官は5年後の今、明かす。
闘将ですら当時は落ち込んだ。「もう、どうでもええわ」。投げやりになった。だが追い詰められたとき、聞こえないはずの声が聞こえてくる。すべてを投げ出そうと萎(な)えた心に、妻の、言葉を覚えることなく逝った孫の声。「あなた」「おじいちゃん」。その声で立ち上がった。故人に報いるために過酷な人生に敗れるわけにはいかなかった。だからこそ、母を失った今回も涙を隠した。
「すべては運命」と語る。母への惜別の言葉も同じだった。「90年生きたんやし、エエんちゃうかな。最後まで元気だったし、苦しんだわけやない。それが人生、運命なんや」。
すべてを受け入れ、生き切る。腹を決めた男に揺らぎはない。監督就任を要請された01年12月も迷わなかった。「これも運命や。名古屋にいれば大切に扱ってくれる。でもオレは野球で生きるしかない。阪神が必要としてくれるなら関西に行く」。そう決め「火中の栗(くり)を拾う」と言われた荒波に飛び込んだ。
星野仙一。この日の感激とともに、その裏にあった衝撃を忘れない。
※記録と表記は当時のもの
