2010年04月20日
掛布雅之は、どうなってしまうのか?
掛布雅之は1973年のドラフト6位で阪神に入団している。翌年のキャンプで頭角を現し、1軍に定着した。その人気はウナギ登りで、当時、ABCラジオのパーソナリティ中村鋭一が毎日のように掛布の話題を取り上げていたのを覚えている。確か、この年限りで引退した長嶋茂雄との2ショットも見た覚えがある。
当時、ミスタータイガースと言えば田淵幸一だったが、年々太くなり、動きが鈍くなっていた。はつらつとした掛布の登場は、田淵にも影響を与えたようで75年には本塁打王を獲得している。日の出の勢いの掛布と、下降気味の田淵は何かと比較される存在だった。田淵が78年に西武に移籍し、掛布は名実ともにリーダーとなった。
掛布の魅力は、今にして思えば、まず3Bの守備だった。ゴロをすくいあげるや、腰にためを作って矢のような送球を1Bに送る。打撃でいえば、二塁打の魅力。これも腰にためを作って体の軸でバットを振る。打球は糸を引くように外野を抜けていく。ぼわーんと大きなフライ性の本塁打を打つ田淵とは好対照だった。
同い年の江川が5年遅れでプロ入りしてからは好勝負を繰り広げた。掛布は好機に何度も江川を攻略した。クラッチヒッターの典型という感があった。掛布と江川は167打数48安打14本塁打33打点。掛布の勝ちだろう。
「か、け、ふ」「か、け、ふ」の「掛布コール」も、甲子園の名物になった。このころ、東京の落語界では春風亭小朝が「横丁の若様」で売り出していたが、彼は落語「たがや」で、武士と対決するたが屋に「た、が、や」「た、が、や」と「たがやコール」がかかるというくすぐりを入れていた。甲子園がやたら賑やかになったのは、このくらいからだろう。
2つ下の岡田彰布、2つ上の真弓明信と打線を組んだのは1980年、83年には1つ上のランディ・バース(彼は今上院議員だ)が加わり、のちの30本カルテットが完成する。
掛布は79年には48本塁打を打ち、以後長距離打者へと変貌していくが、次第にスピード感は失われていく。そして、85年の優勝時に40本塁打を放ったのが最後の輝きになった。以後3年現役を続けたが、その間打った本塁打は26本に過ぎない。86年4月に受けた手首の死球が致命的だったとされる。
解説者としての掛布は評判が良かった。論理的で、しかも自分の言葉で話ができた。ただ、古巣阪神とは確執があったようで、球界には復帰しなかった。張本勲、江川卓とともに、指導者にならない大物の代表格だった。
いつか、ユニフォーム姿を再び見ることができるかもしれない、そう思っていた人間にとって、昨年からの掛布の経済的な困窮はショッキングな話だ。世間がプロ野球開幕に沸くこの季節に、自宅差し押さえのニュース。
事情は全くわからないが、掛布に思い入れがあった世代としては、何としてもグランドに帰ってきてほしい。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/khiroott/article/394