大河ドラマ『麒麟がくる』が再開しましたね。

凄く焦らされた挙句の再開、喜びはひとしおでした。(焦らしプレイの真骨頂!)

 

 麒麟が来ない間(放送休止中)、『太平記』を楽しんでいた私は、麒麟がくるの再開一発目で、いよいよ足利義輝の身が危ない雰囲気だったり、後の足利義昭になるお坊さんが出てきたり…と、光秀そっちのけで足利家の同行が気になってしまいました。イヒ

 

 ところで、麒麟がくるの時代を“戦国時代”と言っていますが、一応まだ室町幕府は倒れてないですよね?アセアセ先日の放送で、ほぼほぼ義輝に将軍としての権力が無いとは言っていたけど。

 室町時代はいつまでで、戦国時代はいつからなのか、改めて気になりました。

 

 Wikiを見てみると、戦国時代については“応仁の乱か明応の政変(って知らないけど)に始まる”って書いてあって、ピシッといつからとは決まっていない感じ。室町時代の最後については、“足利義昭が織田信長に京都を追放されるまで”と書いてあり、今麒麟がくるで放送されている時代は、室町時代であり戦国時代でもある…となりますね。時代が重なっている…だと!? 何か貴重!(笑)

 

 

 さて、太平記では先日22話目が放送されて、ちょうど鎌倉幕府が倒れたところでした。

そしてこれから、室町幕府を作っていくのかな…と。

 

 太平記を見ていて凄く驚いた&疑問に思ったことがいくつかあるんですが…

 

・鎌倉幕府を倒したのは足利尊氏ではなく、新田義貞だった。

・足利家は“源氏の棟梁”。

三河は代々、足利家の領地。

 

 この3つ。

 

 

 まず最初の、“鎌倉幕府を倒したのは足利尊氏じゃない”で驚いた件ですが、その後の室町幕府を開いたのが尊氏だったので、当然前政権を倒したのも尊氏だったんだろう、という先入観からきています。もしかしたら学生時代ではちゃんと習っていて、新田義貞ってテストで書いてた?(もう覚えてないけど!)

 

 太平記では、鎌倉幕府の権力者である北条家が、足利家を警戒していて、近畿地方で起こった反乱に対してギリギリまで足利家を送らず、足利家にしても最初は、京へ向かう途中の三河まで行ったら、反転して鎌倉を攻めようなんてことを考えていたようですが、それでも軍勢が足りないとも言っていました。

 

 それで、源氏を祖と同じくする他の武家に協力を頼むことに。子供の頃から北条家をよく思っていない新田義貞に協力を仰ぎ、尊氏自身は北条家の命令で近畿の反乱を鎮圧すると見せかけて、京都の六波羅探題(鎌倉幕府京都支部?)を攻め、新田義貞には鎌倉を攻めさせた…という感じでした。

 

 新田家はそんなに大きな家ではないらしく、軍勢(家臣)も少なかったようなので、私が新田義貞だったらたまったもんじゃないけど!(^^;

いくら尊氏に「うちの軍勢付けますんで」とか言われても、正直ご遠慮願いたい💦

 そう考えると人質の意味もあったのかわからないですが、尊氏の嫡男である幼き千寿王が、新田軍と合流していました。

 

 

 これから鎌倉幕府を倒そうっていう戦々恐々としていた中、メッチャ和むシーン。にやりラブラブ

 

 

 この新田義貞、足利家と「ご先祖が同じ」と言ってましたが、そもそも最初からこの足利尊氏、“源氏の棟梁”と呼ばれていたのが、私的には「何で?えー?でした。

…というのは、源氏の棟梁と言えば源頼朝のイメージが強いし、源氏の棟梁なら、“源”って付くんじゃないの? と。

 

 それでちょっと調べてみたんですが、足利尊氏と源頼朝のご先祖は、頼朝の4代前(ひいひいおじいちゃん)と尊氏の9代前の、源義家という方で繋がりました。源義家は、平安後期(1039年)生まれで、彼の三男“義忠”の子孫が源頼朝、四男“義国”の子孫が足利尊氏に繋がっているようです。

 

 源頼朝の子孫は、北条家に暗殺されたり、殺されないように出家したり、暗殺の仕返しにあったりで(泥沼!!)、結局武家としては途絶えてしまったようなので、そこからどう移行したのかはわかりませんが、なんやかんやで源氏の棟梁の座が足利家に移ったんでしょう。(超憶測!)

 

 源の義家を調べた時に参考にした系図があるんですが…これがパッと見、吐きます。

参考:http://www.squarehills.sakura.ne.jp/kituregawa-keizu01.htm

 

 吐きたくなるの、私だけ?(^^;

よく見ると、「新田祖」と書かれている人がいるんですが、これが多分新田義貞のご先祖様ですね。

こういう感じで「〇〇祖」っていう人がいっぱい居ます。「皆繋がってるんだなぁ~」って。「どいつもこいつも源氏かぁ~」って。(笑)

 

 

 尊氏が鎌倉から京都へ向かうことになり、途中で三河に寄って、その土地の足利家の縁者、分家の皆さんにおもてなしされるシーンがあったんですが、その時に尊氏が「三河は代々足利の領地」と言っていました。

最初に鎌倉を攻める作戦を立てた時、「三河で反転して…」と言ったのは、ここで足利の分家の人達が必ず加勢してくれるからという意味だと思うのですが、ここで戦国時代しか知らない私としては、「三河って足利の領地なの?えー?ってなりました。

 

 戦国時代だと、三河と言えば徳川家康…松平家というイメージがありますが、松平家は守護大名の家じゃないので、「じゃあ三河の守護大名って誰?」ってなります。

そもそも家康は竹千代の頃、尾張(西)の織田家か、遠江・駿府(東)の守護大名である今川家につくかで、人質として取り合いをされます。織田家はこの時、尾張の守護大名…ではなく、守護代で、尾張の守護大名は斯波氏だったかと。

 

 じゃあ三河の守護大名は? ということで「三河国」をWikiで調べて見ると、“守護所”という項目に、“承久の乱後に三河守護に任命された足利義氏と書いてありまして、承久の乱は鎌倉時代の初期に起こる乱で、多分再来年の大河ドラマで詳しく描かれると思うので、その辺りは三谷幸喜さんにお任せするとして(笑)、この足利義氏という方、さっきの参考系図で見ると、足利家の祖である源義家のひ孫、尊氏にとっては5代前のご先祖になります。それで、「代々足利の領地」と言っていたのか!と。

 

 この足利義氏という人を調べると、“庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に住ませて、足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた”とあって、吉良氏を調べると、領地に“三河国”と書かれています。

 

 余談ですが、この足利義氏という人のお母様、北条時子という方で、あの北条政子と実の姉妹らしく、ゾッアセアセとしました。足利家にも、北条家の血がどっぷり入っていたのか、と!(当たり前と言えば当たり前?)まさか子孫が北条家を倒すことになろうとは…因果かな。ぼけー

 ちなみに、この吉良長氏の次男が、国氏という方なんですが、この方が今川氏の祖です。

長氏にしても今川国氏にしても、嫡流ではないので、どんどん苗字を変えていくシステムなんですね💦

 

 吉良氏の説明に、「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と書いてあり、なんかちょっと江戸時代でいうところの、徳川御三家みたいだなと。格式(名前のブランド?)は高かったようですが、かえって警戒されていたらしく、細々と江戸時代まで家名は続くものの、“世襲の守護領国を形成する方向への発展はなかった”とも。…つまり、守護大名って名乗る程、支配領地はデカく無かったってこと?えー?Wikiを読んでいると、とにかく頭が痛くなるくらい複雑なようで、単純に“三河は吉良氏が守護大名”とは言えないことだけはわかった。

 

 ただちょっと面白かったのが、この吉良氏が江戸時代の有名な事件、忠臣蔵で有名な赤穂事件吉良上野介義央に繋がっていて、この事件によって義央の孫の吉良義周の代で、吉良氏は改易されています。

 赤穂事件と言えば、“喧嘩両成敗なはずなのに、浅野内匠頭だけが切腹させられたのがおかしい”という件ですが、戦国時代のエピソードに、“今川氏にとって吉良氏の存在は、家格秩序の上から悩みの種だったようで、今川義元の重臣太原雪斎は、天文18年(1549年)9月5日付書状で、吉良氏当主を「御屋形様」と呼び、宛先も当主本人ではなく「西条諸老」、すなわち西条吉良氏家老宛としている。現実では、今川氏が駿河・遠江・三河3か国を支配しているが、弱小勢力の吉良氏はその下に従属しているにも関わらず、書札礼では雪斎が陪臣(家来の家来)として振る舞わなければならなかった”と書いてあり、もしこの様子を徳川家康が知っていたのなら、徳川家が吉良家を大目に見てた可能性もあるのかな…ってちょっと思いました。

赤穂事件が起こったのは綱吉の時代ですが、口伝えで吉良家ブランドが、その頃まで通用していたのかなと。

 

 三河の守護についてはちょっと難しかったですが、とにかく代々足利家の領地というのは納得できました。っていうか、尾張守護の斯波氏にしても、駿府・遠江守護の今川氏にしても、↑あの系図見ると、元を辿れば皆足利氏だもんね!?

愛知も静岡もザックリ言えば、足利家のもんだよ!(暴言)

 

 

 こっからは蛇足かもしれませんが、(今までも十分蛇足汗 麒麟がくるの話に戻しますけど、足利義輝が三好長慶によって権力が奪われていた頃、やっぱり義輝の頼みの綱は、今川義元だったのかなと、改めて思いました。「SOS」の書状を貰っていたのかなと。

 今川氏は斯波氏といがみ合ってたこともあったらしく、当然織田家とも小競り合いしていたので、京まで行く途中で、尾張の件も決着付けたかったのかなと。

 

 今まで今川家と足利家の繋がりをあまり知らなかったので、正直、今川義元が尾張を攻めた時、尾張を平定出来たとして、その後京まで行く気は無かったんじゃないかと思ってたんですが、足利家を知れば知る程、将軍を助けに京まで行く気だったんじゃないかという気になってきました。

 

 

 …という事で、今現在、足利家が気になってしゃーないよ、というお話でした。

※長文失礼致しました。