歴史鑑定の千姫特集を見ましたが、これが予想以上に面白かったのでその話を。

 

 まず千姫を知らない人向けに説明しておくと、豊臣秀頼公の正室ですね。或いは徳川家康の孫。2代目将軍秀忠の娘で、江の娘でもあるので、秀頼の母親は淀殿(江のお姉さん)なので、秀頼とはイトコ同士での夫婦。

 

 これだけでも情報が盛り盛りでややこしいのに、その後が更に興味深いです。

 

 

 秀頼公と言えば、大坂の陣で敗北して自害しているわけですが、千姫は大坂城から逃げ出して生き延びています。この時千姫18歳。(秀頼は享年21歳)余談ですが、この辺の運命は千姫のお祖母様であるお市様に近い物がありますね…

 

 

■千姫の再婚相手(二番目の夫)は、本多忠勝の孫だった!

 

 本多忠刻(ただとき)という方ですが、この人の母親は熊姫(ゆうひめ)と言って、信康の娘です。信康とは、家康の長男の信康です。嫡男だったのに父に殺されたあの信康!!

 

 つまりどういう事かと言うと、忠刻の父親である本多忠政――本多忠勝の息子は、家康の長男の娘を娶ってたという事ですよね……それって結構凄くない!? しかもこの熊姫のお母さんは徳姫なので、熊姫は信長の孫でもある。(段々熊姫が凄く見えて来たけど!)

 

 話を忠刻に戻すと、母親が家康の孫だから、忠刻は家康にとってひ孫にあたるわけで、千姫は孫だから、ひ孫に孫を嫁がせ…(もっとややこしい!!)それにしても忠勝の息子には熊姫を嫁がせ、孫には千姫を嫁がせたんだから、家康にとっての忠勝って、やっぱ凄く信頼のおける武将だったのかなと。

 

 余談ですが、忠刻は『眉目秀麗』だったそうで、そう説明した後の再現VTRで家康が、「忠勝を思い出すのぅ…」って言うので、忠勝まで眉目秀麗みたいな印象が……(そうじゃないとは誰も言って無いけど、何故そうじゃないと思うのか!)

 

 

 この時代は、夫が離縁すると言わないと離婚出来ないそうで(何という男尊女卑!)、千姫を再婚させたい家康は、縁切寺の満徳寺を利用して、千姫と秀頼公の縁を切ろうとしたようです。(※この寺では、妻が寺に入って修行すると離縁出来るという独自の法があったようです)

 

 でも実際は、身代わりとして乳母がこの寺に入ったそうで、千姫は江戸城で修行していたようです。(それでいいんだ!?)

 

 これで晴れて再婚。本多忠刻21歳、千姫20歳。(割と再婚早い気がする…)二人の間には長女と長男を授かりますが、長男は3歳で早世。娘一人が残り、忠刻は享年31歳(病没)。たった10年の夫婦生活でピリオド。千姫は二人の夫に先立たれたわけです。

 

 

■秀頼公と側室との子を養子にしていた!

 

 千姫と秀頼には子供がいなかったのですが、側室との間には長女と長男の二人子がいて、長男は大坂の陣の後、市中引き回しの上、京都六条河原で斬首刑。せめて長女は救おうと、千姫が家康に頼んで養子にしたようです。もちろん政治利用されると困るので、その子は東慶寺というお寺に入れられて“天秀尼”という名の尼として過ごすのですが…

 

 この東慶寺というお寺、これも縁切寺で、千姫も以前満徳寺にお世話になった経験から、二人はこのお寺へ駆け込む女性達の力になる為、東慶寺の『縁切寺法』を幕府公認にして貰うよう働きかけたそうです。

 

 晴れて幕府公認となった東慶寺の『縁切寺法』は、200年以上続いたそうですが、この話どっかで聞いた事あるなと思って調べてみたら、ちょっと前に大泉洋さんがご出演された時代劇映画で『駆け込み女と駆け出し男』という作品の舞台がまさにこのお寺でした! 実はまだこの作品見て無かったんですが、是非今度見てみようと思いましたね。まさかこんなバックグラウンドがあっただなんて!キラキラ

 

 

 結構悲しい出来事が多い千姫ですが、弟の家光の息子の綱重を育てたり、良縁に恵まれた娘の勝姫の嫁ぎ先(池田家)の領地が天災でピンチの時は、幕府と自分のお金をかき集めて4万両(今の価値で約40億)のお金を貸したりと、なかなかにご立派です。

 

 そして千姫(天樹院)享年70歳。(家康の血なのか、結構生きる…)

 

 秀頼のお嫁さんとして認識していた千姫でしたが、その後の人生が思わぬところでいろいろと繋がったので、私的には随分面白い特集となりましたにやり