グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილიイオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で生まれる。正教神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

 

 以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議ロシア語版議長1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]

1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]

一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]

 

 1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーナチス・ドイツ独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国日本とも日ソ中立条約を結んだ。

 

 1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦モンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土朝鮮半島北部まで攻め落とした。

 

 連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]ヤルタ会談ポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

 

 1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

 

 死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

生涯

生い立ち

父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ   父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ

 1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリグルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)として[1]ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼ農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]

 

 彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。

 

 ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]

 

 神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]