昭和20年4月の沖縄特攻で戦艦大和は米軍に撃沈されました。大和の沈没後、日本兵たちは溺れそうになりながら海中に浮いていましたが、その際の米軍側の非道行為の話も残されています。

 大和から海に落ちた乗員は数百人と言われましたが、そのうち駆逐艦に救助された者は半数近い269人でした。残りは救助を待つ間、溺れたり鱶(ふか)の餌食になったり、米軍の機銃掃射で撃たれたりして命を落としました。

 米軍機の機銃掃射は何時間にもわたり、無抵抗の漂流者も容赦なく撃たれました。海に浮かんでいる者は機銃弾を浴びせられるたび海に潜ってやり過ごしていました。

 救助の駆逐艦が来ると、米軍機は今度は遭難者を回収させまいと、駆逐艦にも機銃を撃ちこんできました。

 日本海軍は敵の漂流者を撃たないことを原則としていました。レイテ海戦の時に「大和」は敵艦を沈めましたが、海に浮かぶ敵兵を前に機銃を撃ちかける者もいました。

 しかし艦長や副長から発砲を禁じられ、米軍漂流者をそのままにして大和はやり過ごしました。

 従って日本海軍関係者にとって、丸腰の遭難者に何時間も機銃を執拗に撃つなど、米海軍の行為は言語同断の卑劣な振る舞いだったのです。

 

 グルジア語名იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილიイオセブ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリ)としてロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市で生まれる。正教神学校で教育を受ける[2]が、のちに棄教無神論に転向[3]、15歳にしてマルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

 

 以降、人民委員会議議長および同職を改組した閣僚会議ロシア語版議長1941年から1953年に死没するまで務めたほか、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した[1][4]

1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、ソ連が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した[5]

一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いることになり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出すことになった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上[6]、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた[6]。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑あるいは追放された[7]

 

 1939年、ナチスドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、マクシム・リトヴィノフに一任していた仏英ソ同盟の締結が不調に終わったこともあり[8]、反共主義・反スラブ主義を掲げていたアドルフ・ヒトラーナチス・ドイツ独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻第二次世界大戦を起こすことになる。世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合(冬戦争)などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。アジア方面ではドイツと同じ枢軸国日本とも日ソ中立条約を結んだ。

 

 1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、米国の連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じてドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧を支配下に置いた。アジア方面ではソ連対日参戦モンゴルの独裁者ホルローギーン・チョイバルサンとともに満州と内蒙古、日本の北方領土朝鮮半島北部まで攻め落とした。

 

 連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく[9][10]国際連合安全保障理事会常任理事国となり、米国と並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた[11]ヤルタ会談ポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行って冷戦を始めて鉄のカーテンを築き、ファシズム打倒後の共産主義資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成した米国に対し、非同盟を掲げてスターリンと対立したヨシップ・ブロズ・チトー政権のユーゴスラビアを除く東欧諸国とワルシャワ条約機構が後に設立される。アジア情勢を巡っては国共内戦中国共産党を支援して中国大陸に中華人民共和国を成立させ、第一次インドシナ戦争ではベトナム民主共和国朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国を支援して竹のカーテンを築いて東側陣営を拡大していく。

 

 1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあったことはスターリン様式の建設物が今日でも多く残っていることからも理解できる。また科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、前者は1949年のRDS-1で成功し、後者ものちに実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策たる自然改造計画であった。1953年に寝室で倒れ、病没した。

 

 死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。1956年ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へ変化した。この潮流は、反スターリン主義として各国の左派に影響を及ぼした。

その後もスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を非常に難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一にあたるロシア連邦においても踏襲され、スターリンを暴君とする意見[12]と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある[13]。特にスターリン崇拝が強いのは隣国のベラルーシである。

生涯

生い立ち

父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ   父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ
父ヴィッサリオンと母ゲラーゼ

 1878年12月18日、ヨシフ・スターリンはヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリグルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)として[1]ロシア帝国支配下のグルジア(現在のジョージア国)のゴリ市に生まれた。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ[14]は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼ農奴出身のカルトヴェリ人という貧しい家系であった[15]。両親の第3子であったが2人の兄は幼児で死没しているため、実質的には長男として育てられた[15]

 

 彼の生まれ故郷は騒々しく暴力的で、治安の悪い地域であった[15]。父ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール依存症を患い、しばしば妻や子供に暴力を振るった[16]。家計は次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した[15]。7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。また12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い[17]、後遺症で左腕の機能に障害を抱えることになった。

 

 ヨシフは10歳の時、グルジア正教会からの推薦を受け、教会が運営する聖職者養成の初等神学校に進む。信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[18]。結局、父は別居という形で一家から離れていったが[15]、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという[15]

 

 神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、公用語であるロシア語の使用が強制されていた。ヨシフは度重なる父の反対や怪我を乗り越えつつ勉学に励み、この経歴から聖書を隅から隅まで読んだといえる唯一の独裁者である[19]。やがて優等生として認められるようになったが、マルクス主義に傾倒したことで神学に対する疑問を抱き始めていったとされている[20]。神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた[21]1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している[22]

  ヒトラーの構想がもし実現していたら

 

 

 

 

 

 

 何が言いたいかというと、どんな状況にあっても、いつも輝ける未来を考えなきゃいけないっていうこと

 

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我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。

ポルポト

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私はウナ・ヴォーチェにたまに行くというだけです。その試みはカトリック的に善いものだと思っていますが、このブログはウナ・ヴォーチェ公式のものではありません。たまにウナ・ヴォーチェのミサに行くカトリック信者が、なんとなく運営しているにすぎません。ですから、誤解防止の為にも近々、ブログのタイトルを変えるかもしれません。以上、明記させて頂きます。

私があまりに適当で変な掲載をした場合、ウナ・ヴォーチェの名誉を傷つけてしまう可能性も感じましたので、このようなコメントが必要に思いました。

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蛇のように賢く・・・聖書

あらゆる教訓を参考にしなくてはいけない。




現実と理論が一致しなければ現実を変えよ

絹の手袋をはめてでは革命は出来ない。

建設するには、知恵を持たなければならず、科学を修得しなければならない。だが、知識を持つためには学ばねばならない

ヨシフ・スターリン


革命が爆発するには、『下層』が以前のような仕方で生活することを欲しないというだけでは十分ではない。『上層』がこれまでのようにやっていけなくなるということが、また必要なのだ

労働階級の力は組織である。大衆を組織せずにはプロレタリアートは無である

『下層の生活危機』に加えて『上層の何らかの危機、支配階級政治の危機』が重なった時、その二重危機が被圧迫階級の不満と憤激とが突いて出る裂け目を作り出す

一握りの先進国は、地球上の圧倒的多数の住民を経済面で苦しめている

これが私の運命だ。絶え間ない軍事作戦。そしてこの作戦を腐敗させることへの憎悪。けれども私は、腐敗を伴った平和とこの運命を取替えはしないだろう

革命は、全国民的な危機なしには起こり得ない

一般に怨恨というものは、政治の中では普通、最悪の役割を演じる

若い青年の最も重要な課題は、学習である

もっとも危険なことは、敗北よりもむしろ自分の敗北を認めるのを恐れることであり、その敗北から何も学ばない事である

自分の病気をあからさまに名指し、容赦のない診断を下し、その治療法を見つけ出すだけの勇気が無いような政党は、尊敬に値しないだろう

学べ、学べ、なお学べ

百人の力は千人の力より大きなものでありえるだろうか。もちろんありえる。さらに百人が組織されていれば、実際にそうなる

どんな政治的自由があっても、それだけでは飢えたる大衆を満足させることはできない

信頼はよいものだ、しかし統制はもっとよい

どの政治あるいは社会グループ、勢力、重要人物が、ある特定の提案や処置などを支持するかどうか、そのことが明確でなかったら、『それは誰の役に立つのか』を常に問わなければならない

政治においてはしばしば敵から学ばなければならないとは昔からの真理である

繰り返される虚構こそが、受け容れられる真実となる

善にして有用なものすべては、極端に到れば、悪にして有害なものになりえるし、しばしば実際に悪にして有害である

具体的なものを抽象的なものにすり替えることは、革命における最も重要かつ危険な罪過のひとつである

革命の時期と進展を示唆することは不可能であり、多かれ少なかれ神秘的な法則に支配されるが、革命が来る場合には急激に進む

富者と詐欺師は、メダルの表裏の違いしかない

書物は、大いなる力である

戦略無き革命運動はありえない

思想は大衆の心をつかんだ時、力となる

我々は奪われたものを奪い返す

一人は万人のために、万人は一人のために

無関心は権力者、統治者への静かな支持である

ウラジミール・レーニン

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ノンクリスチャンだが参考になる言葉

毛沢東(1893-1976)

「革命とは、客を招いてごちそうすることでも無ければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない。革命とは暴力である。一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである。」(毛沢東選集より)

「日本はいま世界有数の強国であり、その軍事力は我が国よりも遙かに勝っている。しかし、中国にあって日本にはないものがある。長期戦に備えられるだけの広大な国土と、莫大な人口、そして正義である。従って、この戦争は三つの段階をたどる。第一段階、日本は奥地まで攻め入ってくるだろう。経済的に行き詰まるだろう。第二段階、日本は傀儡政権を作って対抗するだろう。我が方のゲリラ戦によって消耗するであろう。そして、第三段階、十分に力を蓄えた我が方は日本を追い出し、戦争は終わるだろう。」(日中戦争に関しての論文「持久戦論」より)

宣教もなりふり構わず、蛇のように賢く、展開する必要があります。

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参考

ゲッベルスの宣伝思想と行動

 

ゲッベルスは「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし[216]、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っている[217]。彼は「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としているが、彼が述べる宣伝概念にはヒトラーの『我が闘争』からの踏襲が見られる[217]。実際彼には宣伝手法自体やその出自にこだわりはなく、「ボルシェヴィスト(ボリシェヴィキ)からは宣伝の点で、大いに学ぶところがある」と評しただけでなく[218]、宣伝大臣として最初に映画界に伝達したことは「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」ということであった[219]

ベルリンで宣伝活動を行っていた当時は、ベルリン市民を「群衆の集合」ととらえ、ベルリン市民の思考に合わせた奇抜で独創的な宣伝を多く行った。図案家のハンス・ヘルベルト・シュヴァイツァードイツ語版(筆名・ミエルニル)はこの時期に効果的なプロパガンダプラカードを作成し、ゲッベルスから「神の恩寵」と賞賛されている[220]

宣伝大臣となって最初の重大任務が国会の開会式であり、彼は荘重な演出を行ってヒンデンブルク大統領ら保守派をも感動させた(ポツダムの日)。さらに5月1日の「国民労働の日」祭典や非ドイツ的な図書の焚書、ベルリンオリンピックなどでは荘厳な演出をおこなったが、映画『意志の勝利』で有名な1934年のニュルンベルク党大会にはあまり熱心ではなく、日記にも記載していない[187]。彼が専門領域と考えていたのは「映画」であり、シナリオや俳優の起用などに深く介入した[215]

なお、「もちろん普通の国民は戦争を望まない。」に始まる、戦争遂行のためのプロパガンダ手法を端的に表した名言は、ゲッベルスではなく空軍大臣・国家元帥ヘルマン・ゲーリングの発言である。


ゲッベルス自身は、前述の政治イベント等とは違い「気楽に楽しめる娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う」「宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる」「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」を政治宣伝のあるべき姿と心掛けていた。これらの手法・考えは、当時のドイツやソ連、そして後年幾つか登場する全体主義国家(他、カルト団体など)よりも、むしろ民主主義国家(政治だけでなく商業でも)で本領を発揮し易いもので、事実、ナチスドイツを産み育てたヴァイマル共和政ヴァイマル憲法は当時の世界の中で最高水準の民主制制度を備えていた。マインドコントロール#洗脳との相違も参照の事。

壮大な規模の大パレードやマスゲームで優越感をくすぐり、攻撃対象を痛烈に罵倒し罵る宣伝は支持者への即効性が望める反面、ある程度以上の知性を持つ大衆、或は外国から畏怖や違和感を抱かせる逆宣伝効果が多大にある(敵対勢力に簡単に逆用されてしまう)事をゲッベルスは理解し始めていた[いつ?]。

大手映画会社が作成した映画『ヒトラー青年クヴェックス(ドイツ語版)』(普段から生真面目過ぎて仲間から馬鹿にされているクヴェックスという少年が、生死をかけて潜伏スパイを摘発し、最後に少年団仲間に看取られながら通りの真ん中で最期を遂げる内容)を試写して「あからさまに政治宣伝色が強すぎる」と激怒し、お蔵入りさせるといった出来事まで起きている[疑問点 – ノート]。

その他

  • 青年時代のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーの演説には引き込まれたのに対して、聴衆を逆上させるゲッベルスの演説手法には違和感を覚えたという。
  • 1943年にはボルマン・ラマースカイテルらの三人委員会(ゲッベルスは聖三王というあだ名をつけた)に対抗するため、軍需相となっていたシュペーアやライフンクらとゲッベルスは共同戦線を結成しているが、1年後には喧嘩別れとなった。ハインリヒ・ヒムラーとは概して疎遠であったが、共同戦線崩壊後には接近を試みている[227]
  • 現在のCMでも用いられている、『メッセージ開始後3秒間にジングル音などで人の気をひきつけ、その後本題を流す』という技法はゲッベルスが開発した。

 

 

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私達はカトリック教会の豊かな典礼の遺産を保護し、典礼生活の中での使用を促進することを目的に活動しています。活動にあたり、私達はカトリック教会の教導権と地域司教に完全に従います。

毎月第2日曜日(2015年5月から、13日を除く)及び第3日曜日に東京都内でローマ典礼の特別形式の歌ミサ(トリエントミサ)を主催している他、黙想会を主催しています。