高校時代にストーカーしていた・・
間違えました。
高校時代に想いを寄せていた、1学年上のトム・クルーズさんそっくり先輩について、先日ちょろっとブログに書いたんですが、やはり、短い間でも好きだった人のことを単にアホ呼ばわりするのは良くないな。と思ったので、補足として、こちらで述べておきます。
遠い過去の話ですし、誰かにお読みいただくためというよりは、自分の記憶を掘り起こすために書いていますので、気にしないでください。
まず彼との最初の出会いについて。
それは私が高校1年生になったばかりの4月でした。
通っていた高校までは、自宅最寄りの駅から電車で30分〜40分ほど。
そこからさらにバスで20分の距離でした。
いつだったか「アホが集結する学校の話」という記事を書いたことがあるのですが、その中でも触れたように、中学生時代、素行も成績もすこぶる良くなかった私は、まともに試験を受ける必要もなく、気持ちよく金さえ払えば誰でもウェルカム、偏差値などあってないような、懐の広〜い、慈愛に満ち溢れた私立高校に入学致しました。
「アホが集結する学校の話」は、下書きとして、どこかに残っています。
気が向いたら出そうかな。と思います。
探してくるのがけっこう面倒くさいんだ。これが。
それから念の為に申し上げますと、一応、本当に一応、世間に対する建前上の試験的なものは設けられておりました。
但し、ほぼ記名さえしておけばオッケー。という程度の代物であり、そこらへんの小学生の子を連れてきてもだいたい埋めることが可能な、非常に低レベルな問題の羅列でありました。
ああすみません。そこらへんにいらっしゃる小学生の方々には、深くお詫びしておきます。
しっかり勉強しておられる小学生のかたと私のような者とでは、全く比べ物になりませんので。
ある日の通学電車の中、ふと視線を感じた方向へ顔を向けると、同じ学校の制服を着た男子生徒が私を見ていました。
私達の高校は特徴的な制服で、当時としては比較的ファッショナブルでした。
制服の値段も周辺の学校より高価で、よその県などに遊びに行くと珍しがられたものです。
そのため学校外で遭遇しても、同じ学校の生徒だということは一目瞭然でした。
彼は私と目が合うと、ハッとした表情を浮かべ即座に目をそらし、その後はチラチラと控えめにこちらを気にしていました。
対する私のほうは、チラチラどころではなく、がっつり彼を見ていました。
この時点ですでにストーカーっぽいのですが、あからさまに彼をつけ回すとか、待ち伏せするとか、そういう行為はその後も一切しておりませんので、言うなれば、脳内ストーカーとでも呼んでいただくと助かります。
普段、人の顔に興味がなく、目すら合わせようとしないこの私が、なぜ初対面でがっつりしっかり彼を見つめてしまったかと申しますと、それは言わずもがな、彼がトム・クルーズさんにそっくりのイケメン長身男子だったからであります。
その日から毎日、彼は同じ時刻の車両に乗ってやってきました。
8時04分だったかな。
そして私もその時刻の1両目に必ず乗りました。
こうして私のストーカー生活が・・・
すみませんまた間違えました。
私の高校生活が幕を開けたのです。
私は毎朝だいたい彼の隣の吊革に掴まっていましたが、会話は一言も交わしませんでした。
よろしいですか皆様。ストーカーたるもの、意中の相手に対し、むやみに話し掛けてはいけないのです。
気があるようなないような、あるのかないのか、ないのかあるのか、よく分かっているのかいないのかも分からないようなフリをして、話もせず、視線も合わせず、あたかも大気のようにオゾン層のように自然に振る舞わねばなりません。
(がっつり見とるやないか。)
誤解を避けるために申し上げますと、私は来る日も来る日も、がっつり彼を見つめていたわけではありません。
がっつりは初日だけです。
その後は、目線は別方向、およその場合は車窓の風景を見つめ、彼の気配だけを全身で感じていたからです。
(怖いわ。)
校内でも、学年は違えど、たまに廊下やグラウンドでお互いを見かけることがありましたが、やはり一切言葉は交わさず、ごくまれに目が合う程度でした。
ところで、1年生のとき私は図書委員でした。(2、3年生は宗教委員をやりました。)
そのため、ランチの時間及び昼休憩の時間はだいたい図書室におりました。
また、軽く会食恐怖症であったため、なるべく教室のような大勢のいる場ではなく、司書の先生がいらっしゃる静かな控室で食事を摂っていました。
ここに、用もないのに毎日足しげく図書室へやってくる同じ学年の陸上部の男子がいまして、夏休みに入る前あたりに、その子から「好きです。付き合ってください。」と告られたため、晴れて付き合うことになりました。
体の関係はありませんので安心してください。
私達の時代でも、中には交際相手との間に子どもを授かってしまい学校を中退していく女生徒が多々いました。
それはそれでひとつの人生の選択だと思うのですが、私自身は、この歳で子どもを産み育てるなんて冗談じゃない。と考えるような、母性に乏しいタイプだったため、ことさら男女関係については慎重だったのです。
素行は良くないなりに、一応は人生計画についても考えていたようですね。(他人事か?)
そして高校1年生のバレンタインデー、私はなぜか、付き合っていた彼氏ではなく、トム先輩にチョコレートを渡しました。
ですが不思議と、このことに特別な意味はないのです。
なんとなく、本当になんとなく、トム先輩の反応を見るのが楽しくて、朝、電車に乗り込んだ際に、唐突に「はいっ。」と手渡しました。
トム先輩は若干あたふたしたのち、軽く会釈をして鞄にチョコレートをしまいました。
余談ですが、その年のバレンタインデー、彼氏とはケーキを食べに行きました。
実は、非常に申し訳ない話なのですが私は当時の彼氏がそれほど好きではなく、言葉遣いや話の内容など、常々、軽薄さを感じており、これは若さゆえの軽薄さだったのかも分かりませんが、なんだか性格的に自分とは合わないように思っていました。
そのため、気持ちがだんだんと離れてゆき、結局は2年生に上がる頃に別れてしまいました。
どこかでお元気にされていることを願います。
トム先輩の話に戻りますが、彼は極度のシャイガイでした。
もはや、ちょっと恥ずかしがり屋さん、というレベルではなく、異常に、シャイでした。
バレンタインデーのチョコレートを受け取ったあと、ご自身では気持ちを伝えられず、友達を介してお礼を言いに来たほどです。
当日の午前中、トム先輩は、彼と背格好がほぼ同じくらいのスレンダーなご友人を伴い、私のいる教室にやってきました。
後ろから見ると、お二人はまるで双子を横に並べたような体型で、休み時間や体育のときなど、だいたいセットのように連れ立っていました。
今思えばそのご友人は、学校生活を送る上でコミュニケーション能力に欠けるトム先輩の助けとなっていたのかもしれません。
ご友人が廊下から私に声を掛けてくださり、私は教室の外に出ました。
トム先輩は、完全にご友人の影に隠れるようにして、なんとかその場にいる。という感じでした。
ご友人は私に、「寺嶋(トム先輩のこと)は、君にチョコレートをもらって、すごく嬉しい。ありがとう。と言っている。恥ずかしくてしゃべれないから、代わりに伝えて欲しいと頼まれた。」と話してくださいました。
通訳が要るのか?という感じですが、つまり察するに、そのようでした。
さて。ご友人が私に通訳してくださっている間、トム先輩はご友人のうしろで、一体なにをしていたのかと言いますと、始終、クニャクニャとしていました。
クニャクニャというか、グニャグニャというか、まるで、真っ直ぐ立っているのが難しい軟体動物のように、クニャクニャグニャグニャクニャクニャグニャグニャしていたのです。
(しつこい。)
トム先輩は、はっきり言えば成績は下位のほうでした。
先生の指示がうまく理解できないときもあり、周囲からは、まるっきりテンパったやつ。と思われているような存在でした。
そして、いつも自信なさげに世の中の隅の方で生きている。というような様子でした。
ただ、私の好みの問題もあるかも分かりませんが、容姿は抜群でした。
性格も大変穏やかで、人を傷つけることもありませんでしたし、休まずきちんと学校生活を送られていました。
慌てず焦らずテンパらず、黙って堂々としていれば、女性からキャーキャー言われていたのかもしれません。
そういうわけですので、勉強が得意ではない、成績が良くない、という観点からすれば彼は「アホ」だったのかもしれませんが、ブログを面白おかしく書こうとして、第三者である私が先輩のことをアホ呼ばわりしたことは、間違っていたと思います。すみませんでした。
学校名もお名前も出していませんし、(寺嶋さんというのは仮名です。)どこの誰のことを指しているか明確にしていないとはいえ、自分の気持ちの中で良心が痛むというか、彼をアホ呼ばわりする権利はないと思いましたので、訂正します。
彼は確かに学習面や生活面で多少の問題はあったかもしれませんが、寡黙で真面目で、優しさのあるかたでした。
また、ワンダーフォーゲル部に所属し、自然や仲間意識、体を動かすことに長けており、私にはない、素晴らしい素質がたくさんおありだったと思います。
私達の間柄はなんの進展もありませんでしたが、それに加えて留年することもなく、トム先輩は無事に卒業して行かれました。
私もまた留年することなく無事に3年生になりました。
なにしろアホが大集結する学校でしたので、その中にあっては、(ここが重要です。この学校内に於いてのみ、私は天才扱いだったのです。)私の成績は良かったのです。
3年生になってしばらくは、電車通学が寂しく感じました。
でもすぐに慣れました。
女というのは相対的に適応能力が高いものですね。
宗教委員ではありましたが、相変わらず図書室にはよく行きました。
なぜなら、卒業名簿及び卒業アルバムがあったからです。
当時は個人情報保護の意識がまだ薄く、名簿には、卒業生の住所、電話番号、就職先あるいは進学先が普通に記載されていました。
年代別に置かれた卒業アルバムを誰でも閲覧することができ、私はしばしばアルバムを開いて彼の顔を眺めたりしていました。
住所と電話番号も、暗記するくらい眺めたりしました。
名簿の情報から、彼が就職先に選んだのは私の家から数kmの場所にある金属加工会社だと分かりました。
彼らしいと思いました。
真面目に黙々と、与えられた仕事を地道にこなしてゆく姿が想像できました。
ほらね。私、ストーカーでしょ。
立派にストーカーですね。
でも、私はただ、公開されているアルバムと名簿を見ていただけなんです。
実際に彼の家に押しかけるとか、どうしても会いたいとか、そういうふうには思いませんでした。
なぜでしょうね。
そこは自分でもわりと不思議なんですが、おそらく、それほどの情熱はなかったんでしょう。
人を本当に好きになるというのがどういうことなのかも、まだよく分かっていなかった年頃だったのかもしれません。
次第にアルバムの中の彼を見る回数も減ってゆき、そして私も無事に高校卒業の運びとなりました。
大学1年生の夏頃から、自宅に何度か無言電話がありました。
きまって留守中に掛かってくるため、電話を取ることができず、すぐに留守番電話に切り替わるのですが、帰宅して録音されたものを聞くと、いつもしばらく無言状態が続き、その後、名残惜しそうな雰囲気のまま、電話は切れるのです。
その頃、すでにアッシーはいませんでした。
そのため、私への電話とは思いませんでした。
よく知らない誰かの、軽いイタズラか何かだと、その程度にとらえていました。
アッシーというのは、私の過去記事を読んでくださった方なら、ご存じかもしれません。
私は当初、立て続けの無言電話を全く気にしておらず、家族が帰宅後それを再生するたびに、またか。なんだろうな。くらいにしか思っていなかったのですが、3〜4ヶ月くらいそういった電話が続いたある日、ふと気が付き、まじまじと電話機に表示されている番号を確認しました。
隣町の市外局番。
トム先輩でした。
少しく、動揺しました。
彼はどうやって私の家の電話番号を知ったのだろうか。
可能性としては、2つありました。
近所の下級生から私の年の卒業アルバムを見せてもらったか、もしくは、ご自身で母校に出向き、図書室でアルバムや名簿を閲覧したか。
しかし他人とほとんど会話のできないトム先輩が、下級生にアルバムを見せてと頼むだろうか。
やはり母校に行ったのではないか。
ですが、私はすでに新しい生活を始めていました。
私は学校を卒業したら、そこで出会った人との付き合いも卒業するというスタンスで生きていました。
それは今も変わりません。
就職先で出会った人たちとも、その仕事場を辞めたら、そこでおしまいなのです。
このやり方が良いとか悪いとか、そういうことを議論するつもりはありません。
良くも悪くもないと思います。
そういう生き方なだけです。
つまり、大学生になった私にとって、トム先輩はもうとっくに過去の人であり、なんの関係もない人でした。
私にはすでに、新しく付き合っている人もいました。
先輩があまりに何度も電話をしてくださるので、一瞬、かけ直したほうが良いのだろうかとも考えました。
でもかけ直しませんでした。
それで良かったと思います。
数年後、実家の固定電話は撤去することになり、今はその番号は使っていません。
私は2歳から慣れ親しんだ番号でしたので、思い出すと少し寂しいような、なんとも言えない気分になります。
実家の建物も取り壊され、現在は弟夫婦が新しく家を建てて住んでいます。
私は結婚して名前も変わりましたし、学生時代の友人と接触することもありません。
私は今を生きています。
時折、過去のことを思い出す日もあるのですが、すべて終わったこととして、人を懐かしがらない、人を恨まない、というのを心掛けて生きるようにしています。
なかなか難しいんですけどね。
特に、懐かしがらない。というのは、とても難しいです。
なんだか、取り留めのない話になってしまいました。
とにかく、トム先輩はアホではない。ということだけ、確実に訂正しておきます。
失礼なことを書いてしまい、反省しています。
もう全く今の自分とは関係のないかたではありますが、どうか、彼が人生に苦しんだり悲しんだりせずに、幸せにお暮らしであることを願います。
先輩、ごきげんよう。
茶華道部のブスより。