だいぶ前に書いたまま、投稿するタイミングがなく放置してありましたが。

備忘を兼ねて。





心を震わせる物語に出会ったことがない。

一体、この世にそんなものはあるだろうかと思う。

おそらく出会うことなく人生を終えるに違いない。

そう嘯くほどの読書量でない自覚は有り余っている。

良くも悪くも心が動かないことが、ひとえに情緒障害のせいであることも。


なにが間違っていたのか。或いは間違いではなく、これが在るべき姿だったのか。

自分が周りを捨ててきたのか、或いは彼等が自分を捨てたのか。

苦しいことや嫌なことから逃げ続け、煩わしい他者との関わりを極力避け、それは私の正常な情緒の成長を阻害したのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。検証のしようがなく、分からない。

氏より育ち。血は争えない。とも聞けば、血筋は関係なく環境が人間性を作るとも云われるが、しかし結局のところ生まれ持った気質が環境をも招くのであれば、性善説や性悪説のようなものはあまり意味を持たないのかもしれない。

人格というのは複合的な要素による結果であるということについて深く考えさせられる作品のひとつに、スペイン黄金世紀を支えた、Pedro Calderón de la Barcaの La vida es sueño (Das Leben ein Traum.独 )があるのだが、これは、王子として生を受けた男が、悪魔的思想に影響された父親である国王に幽閉され、人間としての資質をいたずらに試されるという酷い話だ。

Pedro Calderón de la Barca は神学出身であることから神学の婢(はしため)である哲学的要素も加わり、思索的な芸術作品として人々を魅了した。

但しこれを心震わせる物語として捉えることができるのはごく一部の敬虔なキリスト教徒のみだろうと私は思う。

内容は言わずもがな終始神学の精神に基づくため、紆余曲折を経て王子が最終的に辿り着くところ、一時の栄光ではなく永遠なる栄光を目指すべきことに気が付く。という、私のような消極的無神論からすれば、なんとも興醒ましと言わざるを得ない結論であった。

人生とはただ、夢を見ることでしかない。人間は皆、目の覚めるまで、つまり死ぬまで。生きているという夢を見ている。

残念ながら、私のような信仰心のない者が共感できるのはここまでだ。


参考までに、キリスト教に於ける永遠なる栄光とはなにか。について。

ルカの福音書3章7-18

洗礼者ヨハネの教え。

ここでは、群衆を「マムシの子らよ。」という呼び方をしている。

マムシの子とは、神の子に相応しくない者たち。即ち悪魔の子という意味である。

人間を木に例え、良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれるという、なんとも厳しい言葉をヨハネは語る。

ユダヤ人に対し、我々の父はアブラハムだという奢った考えを持つなと教えるもので、アブラハムの子孫であるユダヤ人だから無条件で救われるわけではない、血筋は関係ないのだと説く。

ではどのようにしたら救済されるのか、ここでヨハネが群衆に向けて提示した答えが「分け与えよ。」である。

それが、金や権力などの死んだら消え去る栄光ではなく、永遠の栄光。

彼等を、来たるべきメシアを待ち望む、救いを受ける準備のできた民衆「神の民」として整えることが、洗礼者ヨハネの役割であった。

しかしどちらにしてもこれは人間が言ったことであって神が言ったことではない。

浄土真宗に於いては悪人(と自覚した者)こそ救われる悪人正機という有名な考えがあるが、これもまた、親鸞がそう言ったのであって仏が言ったのではない。

よく考えてみれば誰もがそう感じるに違いないが、信仰する内容によって我々人間の行き先が変わるのもおかしなものだ。

D'ou venons-nous ?
Que Sommes-nous ?
Ou allons-nous ?


キリスト教の教義の上では輪廻転生はなく、従って前世という概念もない。

あるのは、この世である現世と、来るべき次の世だ。

それは死者の行くべき処。無になるのではない。

そして、数々の芸術家や思想家が、神の国への道を盲目的に信ずることに懐疑の念を抱くから病んでしまうのか、或いは心から信ずるあまり、どちらでもよいとは思えずに病んでしまうのかは、私には分からない。


Pedro Calderón de la Barca の別の作品に El glan teatro del mundo というのがあるが、日本語では現世の大演劇と訳される。

物語の中では、人は現世に於ける自身の役割を演じているだけであり、役割を終えたとき、舞台から退場しなければならない。

そして残念ながら、やはり信仰心のない私が共感できるのはここまでである。

世の中というのは、あたかも大きな箱庭のようなものであって、なんだか分からない、とてつもなく大きな存在が、空の上のほうから、ニヤニヤしながら箱庭の中の建物を動かしたり、生き物を追加したりして楽しんでいて、壊れれば、取り替えられる。飽きられれば、捨てられる。ただそれだけだ。などと、私が過去に独自の奇妙な思想を展開したのは、実はこの El glan teatro del mundo から着想している。本当に馬鹿げているけれども。


さて。

マムシの子らよ。と呼びかける一方で、民衆を激励する言葉があったことを思い出したので書き加えると、

コリント人への第一の手紙
第3章16節

あなたがたは神の宮である。神の御霊が自分の内に宿っていることを知らないか。

お前たちは悪だと言ってみたり善だと言ってみたりして忙しいことだな。と思うが、つまり繰り返すと、いずれにしても神が言ったことではない。

日本にあっては、神の存在を信じないがそれを「真」であるとは主張しないという立場の人は割方多いのではないかと思う。

但し、無神論者の分類方法には様々あって、積極的無神論、消極的無神論、或いは学者によっては積極的・明示的無神論、消極的・明示的無神論などいう表現をする場合もある。


神の存在を信用することに消極的な場合、暗黙的無神論や、はたまた不可知論などがあり、暗黙的無神論者には不可知論者を含み、但し結論としては同じくするが両者は異なり、不可知論には論じないと判断するために論じるという矛盾がそこにある。


証明しないならどちらも変わらないようにも思うが。




生まれ変わったら

蝶になろうか

ひらひらと

空夢をさまよう

蝶のように


結局のところ、蝶でも金髪美女でも、私が私であることに違いがないなら、できれば私は金髪美女のほうになりたい。

心に痛みもなく、こういう馬鹿な話をしていられるうちが幸せだと思う。

心震わせる物語に、出会えなかったとしても。




昔者莊周夢爲蝴蝶。栩栩然蝴蝶也。自喩適志與。不知周也。


俄然覺、則遽遽然周也。不知、周之夢爲蝴蝶與、蝴蝶之夢爲周與。


周與蝴蝶、則必有分矣。此之謂物化。



荘子 斉物論第二 荘周夢為胡蝶