「お時間です。」


時刻を告げるタイマーが俺の内側で叫んでいる。


ヒステリックに声を荒らげる、口うるさい執事のようだ。


高い声の、騒々しいおっさん。


人の頭の中でぎゃあぎゃあ騒ぎやがって。たまには黙れよ。


今に始まったことじゃないが、どうにも気分が優れない。


そうだな。どうせ時間は持て余してる。海までドライブしよう。


俺はジムの駐車場で車に乗り込むと、エンジンをかけた。


走り出そうとしたその時、ふいに助手席のドアを開けて、一人の女が乗り込んできた。


髪の長い女だった。


「え?ちょっと・・」


俺は一瞬戸惑い、しかし女があまりにも自然に座席に収まったので、なにも言えなくなってしまった。


「埠頭へ行ってよ。」


女は言った。


びっくりするくらい落ち着いている。



俺の車はタクシーかよ。


そう胸の奥で呟きながら、なぜか

「はい。」と返事をしてしまった。


俺はなにをやっているんだろう。


そして、この女の目的は一体なんだろう。


理由の分からない人間の行動ほど怖いものはない。


戸惑いと不信感。そして至極当然のような女の振る舞いとは裏腹な、理解の追い付かない不自然な状況。


だか俺に、ほんの少しの下心があったのは確かだった。


あわよくば、このあとこの女をどうにかできるかもしれない。


得体の知れない女だが、不思議と惹かれるものがある。


切れ長の目。薄い唇。とびきりの美人ではないけれども、どこかで会ったことのあるような、懐かしいような…


実に鄙俗だな。だが俺は別に、そういう自分を隠そうとは思わないよ。



「タクシー代わりに使って悪いわね。あなたもちょうど、海へ向かうところでしょう?」


女はまるで、俺の心を覗き見たような口ぶりで、そう言った。


乗り掛かった船ってことか。乗り掛かったのはどちらだろうな。俺のほうなのか、それとも女のほうなのか。


一見、頭がおかしいようには見えないが、こいつはいきなり見ず知らずの男の車に乗り込んできて、埠頭へ行けと言う。やはりイカれているのかもしれない。


まあいい。君の言うように、俺だってちょうど海へ向かうところだったのだから。



車は夕暮れの道をゆっくりと走り出した。


ビルの間の赤い太陽が、迫っては沈んでゆくのが見えた。


所々で灯りだす幾多のネオンを通り過ぎる。


見慣れた直線を走り抜けながら、次第にここが知っている道ではないような気がしてきた。


なんだか胸騒ぎのようなものを覚えた。


タイマーは相変わらず鳴り続けている。



また鳴ってる。うんざりだ。


俺は声に出さずに呟いた。



唐突に女が言った。


「止まらないわよ。」


俺は少し驚いて一瞬、女の顔を見た。


「知ってるんでしょ?止まらないってこと。」


助手席の女はすました顔をして会話を続けた。


「とっくに気付いているでしょう。あなたはいつだってそうよ。仮定の生き方しかしない。ずっと試してる。万年お試し期間というやつね。そして決断しない。わざとしないのか、できないのかは、誰にも分からないけれど。あなたはこれからもずっとそうやって、仮の人生を送り続けるのよ。」



なんだ?この女。


分かったようなことを言いやがる。


人をイラつかせるのが趣味か?


だが、君の言う通りかもな。


どうせ俺の管制装置は、もうやられてる。動きたいようには動けない。命令が出せない。


そして、既に機能しない装置を前にして、俺はなんの手立ても講じない。



「君はどこから来たの?」


「トリニダード・トバゴ。」


「真面目に聞いてるんだよ。」


「私は真面目に答えてる。」


話にならないな。まともに会話するつもりがないのか。


「あなた、結婚は…してないわね。」


「なぜ分かる?」


「趣味じゃない。って顔してる。」


「すごいな。千里眼か?」


「ただの当てずっぽうよ。」


「トリニダード・トバゴと言えば、いつだったか夢を見たことがあるよ。」


「チャンピオンになるんでしょ?ボクシングで。」


「は?」


いよいよ訳が分からなくなってきた。この女はどうして俺の夢を言い当てたのか。


それとも、今が夢なんだろうか。



「善悪の彼岸146節。怪物と戦うものは、その過程で自らが怪物とならぬよう気を付けよ。こちらが深淵を覗くとき、深淵もまた、こちらを覗いているのだ。読んだ?」


「読んだよ。ほとんど忘れたけどね。読んだそばから次々と忘れていくのさ。無駄なこった。」


「あなた、本当は止める方法を知ってる。だけど止めないのね。わざと。」


ますますイラついた俺は、半ば投げやりにこう答えた。


「そうだね。」


さっきから本当に、一体なんなんだろう。この女は。


なにがしたくて俺の車に乗り込んできたんだ。



「君は・・」


誰だ。そう聞こうとして助手席に目をやると、女は忽然と消えていた。



ほどなくして車は埠頭に着いた。


なあに。この話に大して意味なんてないのさ。


車の鍵はちゃんと閉めましょう。そんだけの話だ。不審な女が乗り込んでこないようにな。


空間が歪んだのか俺の頭のネジが外れただけなのかは分からない。


しかし女は確かな存在でそこに在った。小さな宇宙だった。


それはまるで、虚空の彼方からこぼれ落ちてきた光る渦のようだった。


「だけど止めないのね。わざと。」


そうだよ。これは俺が生きている証なんだ。


おそらくこのタイマーは、俺の息の根が止まるまで鳴り続けるだろう。


そこでふと、あのうるさい執事の声が聞こえないことに気が付いた。


脳内に不気味に広がる静けさだ。


意想外にも遠く待ち望んだ、清々しい静けさだった。



そうか。君はタイマーを止めに来たか。


今度は俺が逢いに行くよ。トリニダード・トバゴまで。


距離は関係ない。たとえ何千キロあったとしても。


迎えに行くから、また話そう。


俺は車を降りると、生暖かく湿った空気の中、タバコに火を点した。