先週にコロナとインフルエンザ両方に罹るという酷い状況で、全然ブログ更新出来ていなかったのですが、ちゃんと6段と7段もゲットしておりました。

 

いや~、これは凄い!

中身も凄かったけれど、改めてレゼの結末が正解なのは納得です。
その上でタツキは絶対に許せないってことは確定です。

 



やよい軒のコラボですが、デンレゼとテンアキです。
店が自宅の近場に無くて結構苦労しました。


再販のアクリルスタンドとステッカー
結構、レゼのアクスタも増えましたが、そろそろ飾る場所が限界です。

実は次のチェンソーマンが何篇になるのかとか先週に書いていたのですが、病気で全然更新出来なかったのです。
そうしたら、ついさっき「刺客篇」が発表されて時既に遅しでした。
さすがに第一部は全編アニメ化されそうですね。

気になるのはどの媒体で公開されるかです。

私の予想としては地上波ではないかとは思っていますね。
映画なら闇の悪魔までで、上映時間は2時間越えって感じでしょうか。
何にせよ、早く続きが観たいですね。

■おまけのMISIDE


実は結構好きなゲームで、ついポップアップストアで購入しました。
是非とも続編だして欲しいところですね。

アバターの三作目ということで、ある意味完結という状態になったと思っています。
なので、本作のみの感想と言うよりも、アバターというシリーズに於ける感想になってしまうかもしれません。
実の所、映画を観た印象というのは、一作目と然程変わっていません。
というのも、映画のテーマが何一つ変わっていないからです。
このシリーズを一言で言うなら「懺悔」です。
アメリカが行ってきたことに対しての懺悔なのです。
その目的は明白で、罪が赦されたいという国民の想いの代弁です。
そしてそれは極めて宗教的な側面を持っているとも思えたのです。
そうであるが故に、私には一方的な見方だと思っていたのです。
この映画では全てパンドラ側の目線で描かれていて、地球側が一切描かれていません。
なので、あまりに偏った視点になってしまっていると思えるのです。
もし、地球側も家族を救う為に開拓している人がいて、やむにやまれぬ状況だとしたらどうでしょう?
そういう多角的な目線が無いために、私はこのシリーズに今一つ乗り切れないのです。

本作のもう一つの問題点は語るべきテーマがもう無いという点です。
結局は逆アメリカ開拓史であって、それ以上のものはありません。
また、ドラマ面に於いても同じ問題の繰り返しなのです。
二人の父を持つスパイダーはキーキャラクターになりましたが、結果的に立ち位置は変わらなかったのです。
その他のエピソードも全て今迄のシリーズでやってきたことの塗り直しでした。
なので、場面は目まぐるしく変わったけれど、総じて退屈だったのです。
それは純粋にネタ切れだからなのでしょう。
今回、新たな敵役が出てきましたが、魅力をまるで感じなかったのです。
結局はただ惨忍で暴走するわかりやすい悪役でしかなかったからです。
そんな悪役はもう飽きるほど見せられたのです。
ある意味、本作の命運を握っていたのは彼女で、彼女次第で作品の方向性を変えることが出来たでしょう。
しかし、彼女は予想内の働きしかしなかったので、惹かれるものは無かったのです。

映像的な凄さというのは確かにありますし、映画館でこそ観る作品ではあります。
逆に映画館以外では観たいと思わない作品でもあります。
もし、ドラマ部分が良かったり、キャラに魅かれるものがあれば何度見ても楽しめるものです。
実際、キャメロン監督のターミネーターやエイリアン2などが、テレビ画面でも何度も見たものです。
それに比べればアバターにはリピートしたいと思わせる中身が無いのです。
やはり監督の興味が映像に偏ってしまったことに大きな問題があるようにも思います。
同時に、今後監督が過去の名作に匹敵するものが作れるかは大きな疑問が残ります。
どんな監督も最盛期を越えてしまうと、その後は精彩を欠くことが多いのです。
しかし、中には年老いても名作を生み出してしまう監督が居るのも確かです。
それは例えば宮崎駿だったり、クリントイーストウッドだったりします。
なので、今後のキャメロン監督が集大成のような傑作を生みだすこともあるかもしれません。
ですが、個人的には本作で監督としての一つの結末を迎えたように感じるのです。
私はキャメロン監督のファンであるので、是非とも今後も素晴らしい映画を作って欲しいですが、残念ながら現状は悲観的になってしまっているのです。

■今週のコメダ
グラコロ、海老かおるトマトソースですが、エビはバーガーとの相性は良いですね。
エビバーガーはあるとつい注文してしまいます。
トマトソースの酸味が結構良いアクセントにもなっていますね。

シリーズも4作目ということで、正直観るのをどうしようかと迷った映画ではあります。
それは決して映画の質という点で躊躇った訳ではありません。
それよりも気になるのは映画を観る子供達の態度の悪さです。
今回もそうだったのですが、ずっと喋り声は聞こえていましたし、それに対し親御さんも全く注意しません。
映画を観続けることの出来ない子は席を立つこともしばしばで、堪え性が無い子が増えたという感じです。
かといって、こちらから注意するのも筋違いで出来ません。
それに注意するにしても対象者が多すぎて無理な上、同伴している親が注意しないのだからどうしようもないのです。
こういった状態が年々悪化しているように感じていますが、最早食い止める術はないのかもしれません。
最近の小学校で授業をちゃんと受けることの出来ない子供が増えていると聞きますが、それが映画館でも同じことが起きているように思えるのです。
今回もそういったことが嫌だったので、公開日から結構時期をずらして観客が減った時期に行こうと思っていたのですが、全く駄目でした。
なので、このシリーズを見続けるのも辛くなってきたというのが本当のところです。
やはりファミリー映画はファミリーではない者には辛いということかもしれません。

映画自体はいつものすみっコぐらしという感じで、普通に楽しめました。
結構、おつきのコの正体が明かされる辺りは心に響きましたし、今回は全員でハッピーエンドに辿り着いた辺りが見所でした。
この物語はおうじが中心に展開し、彼の成長こそが一番のポイントとなっています。
父王の病気の原因も恐らくは過労によるものでしょう。
それこそ根本の原因は水不足が原因だったのではないでしょうか。
王子が孤独になったのも、そんなことが原因のように思います。
おうじが水不足の問題を背負ったのも、どこかで父王に振り向いてほしかったのではと思うのです。
問題なのは、自分一人で全てを背負ってしまったことでしょう。
その点、すみっコたちというのは皆が協力することで今迄もやってきたし、それが彼らの強さでもあるのでしょう。
個々の力は大きくなくとも、お互いカバーし合うことで今迄も問題を解決してきました。
そんな彼等によっておうじが学ぶことにこそ意味があったのでしょう。

もう一点、本作の構成は極めてゲームを意識したものになっているとも感じました。
すみっコたちもそれぞれロールが設定されるのは、キャラ選択に同じです。
マップを見ながら移動して、各ステージをクリアしていくというのも定番の流れです。
数々の試練もミニゲームのようなもので、凄く馴染み深いものになっていました。
そういう所でも非常に見易い内容になっていると思います。
前作が実はブラック企業がモチーフにあったりなどしましたが、今回はより純粋な方向性になり本来の形になったのかもしれません。
それでもすみっコとしての楽しさは変わらないので、こういう路線で進んでも良いのかなとも思いました。
何より、子供達が楽しめることが第一なので、無理にテーマ性を持たせることもないのでしょう。
そもそもこのキャラ自体は癒しのために居ると思うので、純粋なままで良いとも思えるのです。
 

最初からネタバレ全開での感想になるのですが、この映画は全員死亡エンドだと思っています。
直接的な描写はないですが、タイトルのナイトフラワーが咲いていることからこの結論に辿り着きました。
夜にしか咲かないナイトフラワーが、日光を浴びて花を咲かせていることが明確な演出です。
そもそもナイトフラワー自体がありもしない希望を象徴なのではとさえ思えるのです。
また楽園というキーワードから全員であの世に旅立ったと解釈しています。
旅立ちという言葉も、死を予感させるには十分だと思えるのです。
更に言うなら、多摩恵が襲われた直後にも関わらず全く焦りがありません。
もし生き延びて合流したなら、一緒に逃げるなどの行動を取ったことでしょう。
そんな素振りは一切見せず、皆で楽園に行くことだけ考えている様子は明らかにおかしいのです。
そういった映画の演出からの解釈に加え、本作がとある映画をモチーフにしていると思ったのも理由の一つです。
その作品はクリント・イーストウッド監督のアカデミー作品賞に輝いた「 ミリオンダラー・ベイビー」です。
敢えて符号している箇所を挙げたりはしませんが、この映画に大きな影響を受けていると思えたのです。
しかし「 ミリオンダラー・ベイビー」は僅かながら希望を見せて終わっているので、ほんの少し救われた気持ちになれたのです。
それに比べ本作は完膚無きまで最悪の結末を迎えたと思っているので、私は結構陰鬱な気持ちになってしまいました。
正直、ある程度観る前から予想していたことではあるのですが、観終わった後の精神的なダメージが結構ありました。
しかし、ラストは観客の好きに解釈しても良いとも思っています。
観たままのハッピーエンドだと思えるのなら、それで良いのです。

本作は貧困と家庭崩壊の問題を生々しく突き付けてきます。
実際にシングルマザーの貧困という問題は社会問題化して深刻になっています。
その根本原因は貧困にあり、それ故に家庭が崩壊するという構造になっています。
但し、それだけに留まらず富裕層であっても家庭崩壊があり、それ故に悲劇的な結末に繋がったとも言えます。
もっと大きな視野で捉えるなら、幸福観が崩壊していることが問題なのでしょう。
この根深い問題を考えると鬱々とした気持ちになります。
私は富裕層ではありませんが、貧困に直面したことはありません。

それ故にこの問題に対する解答も持ち合わせていないのです。

だからこそ、大きな問題に対し途方に暮れてしまう感覚がありました。

ギャング達が度々「 お前の母親は居るのか?」と仲間に質問します。
それに対して、全員が「 居ない」とか「 居ないも同じ」と返します。
夏希がギャングに認められたのも、母親としての顔だったのではと思うのです。
夏希の子供に対する愛は揺るぎ無いもので、違法行為も全ては子供の為なのは間違いありません。
その為に人としての尊厳を捨てる決意をしたのでしょう。
同時に対なる存在がみさきで、娘のことは愛していても、その方法がわからかったのでしょう。
更に言うなら、彼女の狂気の原因は娘の死以上に、自分が得られなかった家族愛にあったのでしょう。

それこそ嫉妬と言っても良い暗い感情に飲まれたように見えるのです。

私なりに本作の構造を理解した上で、やはり疑問点は残ります。
先ずはギャングが売人達を始末してしまう件です。
私にはそこまでするメリットが感じられなかったのですが、現実ではよくある話なのでしょうか?
そこまで人の命の価値が低いのだとしたら、今の世は本当に救いが無いと思えてしまいます。
直接関わっていない海も処分してしまいますし、多摩恵も恐らく殺されたのでしょう。
次は夏希の番なのは確実で、みさきに銃撃されなくとも始末はされる未来しかなかったのかもしれません。
もう一点、みゆきの行動にも違和感があります。
理屈では売人が幸せな家庭を持っていることへの嫉妬ということでしょう。
しかし、それくらいで殺害に至るまでになるでしょうか?
私にはそこまでになるには狂気が必要だと思ってしまいます。
ですが、彼女は不幸ではあっても、狂うに至るまで描写は描かれていません。
その辺は説明不足であると同時に無理があり納得がいかなかったのです。
結果的に私は本作で泣けるような気持ちにはなれなせんでした。

それよりも、大きな問題を突き付けられたような気分になったのです。

■今週のコメダ

グラコロは予想通りのボリューム感で満足しました。

また、タバスコが付いて来たのは意外でした。

一応使いましたが、それほど味変した感じはなかったですね。


 

世は正にコラボ戦国時代!

というくらいコラボが多くなりましたが、私には嬉しい時代になりました。
今回は色々あったコラボのまとめとなります。

■チェンソーマンポップアップ

凄い人数で、抽選だったにも関わらずかなり待たされました。

それもこの絵柄の影響だったのではと思いますね。


勿論、最大の目的はレゼですね。
こんな浴衣を着て欲しかったよ・・・デンレゼ!



続いてテンアキですが、女性客も多かったのは二人の功績かと。

しかし、アキは完全にお侍さんですな。


パワーはこれからの活躍が本当に楽しみ。

マキマさんは寧ろ和服の方が似合うかもね。

 

ビームとか暴力とか、公安魔人はイイヤツばかりですな。

そして、ポストカードはデンレゼにマキマさんという大正解!


おまけのトーチトーチに寄りましたが、今回は物色のみ。

どれも本気の商品ばかりで高いのなんの!



■もちづきさんセブンイレブンコラボ

 

明らかに1日で食べてはいけない量の何かでしたが、

朝晩で完食しました! ・・・死ぬのか?


サンドイッチだけ無かったのですが、結果的に満足です。

コラボとしては値段相応な感はありましたね。



■ジークアクスコラボ

コラボCMでシャアが言いかけた言葉が伏線になっていて・・・
次のニッシンのコラボも楽しみで仕方ない。


すきやのコラボはシャアを引けました。
これもニュータイプの革新が故ですな。

 

友人のチケットが余った都合で観ることになった作品で、そういう事情が無ければ観なかった映画です。
先ず絵柄が原因で興行収入が低迷しているのは知っていましたし、私も自発的に観に行きたいとは思わなかった作品です。
ただ、映画評論サイトなどでは比較的好評なので、観たら気に入る可能性もあるとは思いました。
そんな感じで鑑賞したのですが、結果的に私はあまり楽しめなかったです。
勿論、ビジュアルの面もそうなのですが、物語の本筋に感情移入出来なかったのです。
先ず、主役のジュゼッペに対する違和感です。
その時々で執着したものにのめり込んでいく彼ですが、違和感なのは多くの結果を出している点です。
三段跳びで大会で優勝したり、探偵で難事件を解決したり、何カ国後も喋れたりと、完全に天賦の才の持ち主なのです。
別に天才だから嫌というのではなく、私はそんな彼の性格に非常に危ういものを感じたのです。
何故、素晴らしい結果を出しているにも関わらず、他に目が行くのか。
勿論、御伽噺なのだからリアリティを追求しても意味はないのですが、彼の考えが最初から最後まで理解出来ず、違和感があり続けたのです。
そして、タタンに対する彼の行動は明らかに狂気です。
だから、ハッピーエンドになっても全く安心が出来ないのです。
彼はきっと恋愛にも家族愛にも飽きてしまうのではないでしょうか。
そうなった時の悲劇が容易に想像出来るので、エンディングで幸せな気持ちにはなれなかったのです。

厄介なのは御伽噺だからという前提です。
確かに絵本の中にはおかしな理屈で展開することはよくあります、
昔話なども、実に理不尽な展開になることもしばしばです。
しかし、だからといって映画の質を落とすことを許して良いとは思えません。
勿論、映画ならではの演出はあるもので、それを言及するのは野暮なことです。
ミュージカルなどもその典型で、突然歌うのは違和感があっても受け入れるべきものです。
本作はそれとは別途の不気味さがあるのです。
私はどうしてもジュゼッペの行動に狂気を感じますし、シエロも彼の間違いを繰り返し諌めます。
そんな友の言葉もジュゼッペは聞こうとせず、遂に言葉すら通じなくなります。
この辺りのサイコパスっぷりはホラーのような恐ろしささえあります。
結局、作品は登場人物の描き方次第で変わるもので、私はジュゼッペに対して親近感を持つことが出来ませんでした。
しかも、それがジュゼッペだけではなく、相手のペチカにも感じる部分があります。
それは彼女がタタンの死を知りながら、窓の外のジュゼッペと会話し続けた点です。
彼女もまた取り憑かれていたというオチが実に不気味に感じたのです。

私は本作の興行的失敗をキャラデザのせいだけとは思いません。
それが大きな要素であることは確かですが、それが全てではありません。
純粋にこの映画を他人にオススメ出来るかの方が大きいのではと思うのです。
勿論、良い作品の方が評価されて、観客が増えるには間違いありません。
同時に世の中には傑作でも観られない映画は沢山あります。
本作も同様に評価すべき点があるのはわかります。
刺さる人は刺さるでしょうし、好きな人を否定するつもりはありません。
その上で私はどちらかと言えば辛めの評価で、オススメは出来ない側ではあります。
しかし、だからといって作品を揶揄するつもりなど一切ないのです。
映画の評価は興行成績のみで決められるものではありません。
しかし、失敗したことには確かに原因があるのです。
それは制作側が次に活かすためにしっかりと精査すべきなのでしょう。
なので、そこから教訓を得て、是非とも新しい作品に活かして頂きたいのです。

 

感想を書くのに非常に困る作品というのはあるもので、本作も正にそんな映画でした。
賛否で言うなら間違いなく否であって、数多くの問題点を挙げることは出来ます。
しかし、本作は要素が極めて複合的で一点の問題を挙げると、芋蔓式に関連する箇所について言及する必要があり、全て文句になってしまうことになりかねません。
それはさすがに辛いので少し違う視線、どうすれば良かったのかを考えてみようかと思います。
なので、感想と言うより要望に近いものになるかと思います。
先ず一番大事なのはキャラクターですが、スカーレットを変えてしまうと別作品になってしまうので、変更は出来ないでしょう。
だからこそ大事なのは聖で、彼を変えることでかなり作品の質も変わるように思います。
そこで思い付くのは彼を狂言廻しにすることです。
本作で彼が聖人君子としてふるまいました、それが作品にとって大きなマイナスになっていると感じました。
少なくとも私は彼の言動に納得出来るものは無かったです。
だったら「プレデター バッドランド」のティアくらいのキャラクター性があった方がマシになったでしょう。
また、本作が決定的にユーモアの要素が欠落していて、それが作品の面白味も低下させているのです。
要するにクソ真面目なスカーレットにクソ真面目な相方を用意しても何一つ化学反応は起きないのです。
だからこそ、スカーレットの感情を引き出す為に、彼女の不足している部分を引き出す相方が必要なはずです。
それこそ、バディものの作品は数多くあるのですから、いくらでも参考に出来るでしょう。
また、聖の最後も細田作品定番の展開で、私は彼の登場した瞬間からこのオチを予感しました。
それが的中してしまった時には、心底残念に思ったのです。
それは聖が死んで残念というのではなく、先読み出来てしまう展開でうんざりしたという意味になります。
有体に言ってしまえば、細田監督の持ち合わせているキャラはもう出し切ってしまったように見えるのです。

次に思うのは舞台である死後の世界を止めてしまうことです。
この曖昧な設定の世界が物語の足を引っ張っていると感じるのです。
純粋に世界の設定が甘く、つっこみ所が満載です。
この世界が現実世界と不安定な繋がりがあり、それ故に整合性が取れていません。
死の世界を現実世界に上乗せするくらいなら、純粋なファンタジー世界にしてしまうべきでした。
本作の舞台が中世デンマークである効果は一切なく、ハムレットが元ネタであることは寧ろマイナスに働いています。
復讐という問題もスカーレット個人レベルでしか語られず、人間の持つ業にまで及んでいないのです。
その程度であるのなら、モチーフにすることなと無意味です。
まして、現代日本と関わりを持たせることのは厚かましさすら感じました。
だったら、流行の異世界転生ものにでもした方がまだマシというものです。
更に言うなら、死の世界や竜の存在、果ての世界など、全てが都合よく作られていて、舞台装置としての役割をまるで果たしていません。
明らかに間尺の合わない舞台が繋がっていて、ずっと居心地の悪さを感じていたのです。
死の先に虚無があるという設定も、結局現実世界の死と何一つ違いはありません。
だったら、そんな設定自体が無意味ではないでしょうか。
そんな世界で何よりわからないのは、クローディアス王の野望です。
生きていた時代でも、死後の世界であっても彼の具体的な目的が全く見えないのです。
だったら映画の世界を一つにして、彼の目的を見果てぬ場所への門を開くに絞って良かったと思うのです。
門を開くかどうかの対立で兄を殺す方が展開もすっきりしますし、門の持つ意味を持たせることも出来たでしょう。
そもそも門を開いたらどうなるかも作中で語られていないのです。
だったら、門を開くという点でクローディアスに僅かでも正当性を与えても良かったのではないでしょうか?
その方がよりスカーレットの考えも深いものになったと思うのです。
結果、本作はあまりにラスボスが小物に過ぎるので、決着がついても何一つ感動がないのです。
最終的に手を下したのも竜というのも本当に勿体なく、それこそ世界のルールを明確にして、その必然としての結末を用意すべきでしょう。

次にスカーレットの「自分を赦す」というテーマがそもそも弱いと思っています。
彼女の父親の遺言である、彼女らしく生きて欲しいというのは、王族だからこそ背負わねばならない枷から解放されることだったのではないでしょうか。
だとすれば彼女の選んだ道は、背負わされたものがそのまま残っているように見えるのです。
理屈の上ではより良き国を作ることを望み、その生き方を選ぶということなのでしょうが、私はそこに希望を全く感じません。
そもそも良い国にするなどという言葉自体があまりに浅く、彼女の決意の言葉に心が動かないのです。
それに今迄復讐だけを考えて生きて来た彼女が、この後の国を仕切れるのでしょうか?
既に母親との関係は最悪で、直ぐにでも内紛が起きてもおかしくない状況です。
なので、如何にもハッピーエンド風に結末を迎えていますが、私は彼女の未来に不安しかありません。
それよりは、彼女自身があらゆる柵から解放された方が幸福ではないでしょうか?
その為に、彼女が門を通っても良かったのではと思うのです。
だからこそ門がどのようなものか明示する必要があったし、そこに意味を持たせることも出来たでしょう。
などなど、思い付くままに書きましたが、今迄書いたのはまだマシになる程度の内容です。
だから、それで傑作になるとは全く思ってはいません。
また、ここまで色々書いてきましたが、私は本作をワースト映画とは思っていません。
ちゃんと評価すべき良い点があるとも思っています。
しかし、本作はそんな良い点を全て無為にするような部分が多かったので書くことに意味がないと思ったのです。
そして、個人的に本作が駄作になってしまったことをとても残念に思っています。
同時にこの結果を齎したのは細田監督は当然ながら、後押しした日テレの関係者の責任もあるのではと予想しています。
それこそポスト宮崎駿を目論んでいるのが明々白々で、同じような体制で進めたことが大きな敗因に思えるのです。
 

特典にほいほいと釣られて、五回目を観に行ってしまった訳ですが、それでも十分に楽しめるのは本当に凄い映画です。
ということで、レゼの魅力について改めて語ろうか、いや語らせろ、とも思ったのですが、明らかにキモヲタトークになるのが目に見えているので、敢えて自重して別のテーマで書いていこうと思います。
今回は「 チェンソーマン レゼ篇」にも関わることですが、今年の日本アニメが世界的に飛躍したことについてです。
これは「鬼滅の刃」も併せての話なのですが、実はそれだけでなく、ドラマ「将軍」にも関わる話になります。
今年は、日本の作品が世界に拡がる歴史的な年となったのかもしれませんが、それはまだ今後の動向次第かと思います。
現在もそれぞれの映画が公開中でもあり未確定の状態でもあります。
しかし、現時点でも明らかに歴史的な結果を出したことに変わりなく、それが今後の業界に与える影響は間違いなくあるでしょう。
その上で、ただ素晴らしいと賞賛し楽観視するだけでなく、新たな問題も生じる可能性があるということを考えています。
なので、今年の日本アニメの大ヒットをどう見るかということで書いていこうと思います。

先ず、真っ先に考えたのは、今回の成功でアニメ製作現場に還元して欲しいということです。
この利益が一部の資本家のものになるのでは意味がありません。
そもそもアニメ業界が常に酷い状況にあるのは、明確に運営の問題があるからです。
だからこそ、MAPPAは自社出資の賭けに出ました。
私はそのこともあって、チェンソーマンは放送当初から応援していたのです。
だからこそ、アニメ一期のバッシングは納得がいかなかったのです。
しかし、今にして思えば、あのバッシングがあったからこそ、レゼ篇の成功があったのではないかとも思うのです。
というのも、私自身チェンソーマンの一期では、作品の面白さは十分にわかったのですが、特定のキャラに対して思い入れは生じなかったのです。
レゼ篇も観る前は同じだろうと思っていたのですが、蓋を開けてみれば彼女に心を奪われていました。
これが一期と同じ演出であったならこうはならなかったのではとも思うのです。
なので、結果的にはバッシングには意味があったのではと思えるのです。
ただ行き過ぎたファンの行動というのは悪い方向に作用することが多いので、今回のケースは運が良かったくらいに考えるべきではとも思うのです。
これは評論や口コミの問題でもあって、昨今はこの影響が無視出来ないものになっているのです。
だからこそ、行き過ぎた行動というのは自重すべきだと思っています。
全ては「過ぎたるは及ばざるが如し」なのだと考えて欲しいのです。
また、日本独自の特徴として評価が辛口過ぎるという面もあるようです。
これはゲームでの話なのですが、世界で販売されているゲームで日本の批評だけが著しく低いということがよくあるようです。
私はこれこそオタク文化の大きな特徴でもあると思うのです。
この傾向について、私は良い面と悪い面があると考えています。
時に厳しい批評により作品が錬磨される場合と、逆に制作側に精神的に委縮させてしまう場合です。
なので、この傾向はどうあるべきかが実に難しい側面だと思うのです。
それこそ、オタクというものの長年抱えている問題でもあるのです。

現状、色々な問題点を抱えながらもアニメやゲームなどは世界進出しています。
その上で今後考えるのは、ハリウッドから学ぶことだと考えています。
こう書くと、ハリウッドのように世界的コンテンツを目指すべきと取られるかもしれませんが、私はその真逆の発想です。
今、ハリウッドは凋落していて、その理由が色々と判明しています。
そこで考えるのはハリウッドのような大型化は禁物だということです。
これは純粋に制作費のことで、これが大きくなればその分のリスクが大きくなります。
今のハリウッドが陥っている問題の最大のものは、正にこの大型化の罠に陥ったと言って良いでしょう。
今後、アニメの成功から大型資本が投入されるなどもあるかもしれませんが、それこそ大きな罠のように思うのです。
今回のヒットも単に運が良かったくらいに考えるのが丁度良いのではと思うのです。
そして、今後も同じ規模での制作をしていくべきでしょう。
ここを見誤ると一気に衰退する可能性もあるのです。
次に懸念しているのはカントリーリスクです。
今迄、アニメというのは国内向けのみで作れば良かったし、現状も基本は国内向けで作られていると思います。
しかし、昨今の海外での基準などで色々と厄介なことに巻き込まれていると感じます。
特に大きな影響としてはポリコレだし、更に言うなら宗教問題や政治問題なども関わってきます。
私はそういった圧力を加えることは文化そのものの衰退に繋がると考えています。
だからこそ、真に正しい倫理観、道徳観を持つことは大事です。
その見極めは極めて難しいですが、だからこそ常に油断なく何が真実かを考えなければなりません。
情勢は常に流動的に変化し、価値基準も変化します。
しかし、普遍的な価値観というものはあるもので、それを見誤ることなくしっかりと持ち続けて欲しいのです。
これは制作側だけでなく、受け手側にとっても大事なことです。
それこそ受け手の価値観が狂ってしまえば、送り手も困惑することでしょう。
そういう意味でも個人的には偏りのない目線で作品を受け止められるよう、自身の目線を常に見返す必要があると思っているのです。
それこそ、日々思考の刷新が出来る程の柔軟さが必要なのかもしれません。
今は人々が追い付けない程に価値観が変化する時代でもあるのでしょう。
だからこそ、変えてはならない道徳や倫理が存在すると思うのです。


呪術の特典は全員悪人にしか見えない気がするのは私だけですか?

■今週のコメダ
久しぶりにトーストとコメチキセットです。
モーニングセットも併せてですが、普段に比べると足りない感があるのは、明らかに感覚がバグってますね。

プレデターシリーズは一通り見ていますが、サブスク公開作品は見ていません。
それ程思い入れがあるシリーズではないですが、映画があれば観るくらいの温度感のシリーズです。
本作はプレデターが主役であるというのが最大の売りなのでしょう。
しかし、わたしはそのコンセプトを聞いて、それ程意外とも思わなかったです。
そもそもプレデターは狩人としての文化があり、知的生命体であることは明らかでした。
それに、正々堂々と戦った相手には敬意を払うし、なんなら「 エイリアンVSプレデター」では共闘もしています。
更にアーケードゲームではとっくにプレアブルキャラとして登場しています。
それを考えると寧ろ主役になるのが遅いくらいで、それこそ主役をプレデターにするということをリスクと考えていたのではとも想像してしまうのです。
そういった理由で、私は本作に特段違和感も目新しさも感じなかったというのが本音です。
その上で、本作の出来はなかなか良くて、シリーズ中であれば間違いなく上位に食い込む傑作です。
何よりもう一人の主役のティアが良い味を出していて、物語をしっかり牽引してくれたと思うのです。
また、お供のバドなど、まるでやくざものの舎弟のような感じで、寧ろ懐かしい雰囲気すらありました。
以上のような様々な理由から、プレデターシリーズという枠を越えた作品のように思えました。

本作でもう一点特筆すべき点はウェイランド・ユタニ社が登場したことです。
恐らくエイリアンが出てこない作品としては初ではないかと思います。
最早、どの作品が正史なのかも言えませんし、既に「 プロメテウス」で作品間は矛盾が生じています。
しかし、そんなことは大した問題ではばく、大事なのは、ティアという素晴らしいキャラが登場出来ることにあると思うのです。
ある意味、彼女は主人公のデク以上に本作では際立った印象を与えてくれました。
彼女の上半身だけというのもユーモラスで良かったですし、下半身との共闘といった妙技も披露してくれます。
こういった素晴らしいキャラを出すことが出来るからこそクロスオーバーはあって良いと個人的に思っているのです。
そもそもプレデターの戦闘は明らかに人間の身体能力を超えますから、アンドロイドくらいの方が相棒には丁度良いのでしょう。
そういう意味でも実に上手いことアンドロイドを使えていると思いました。

本作はプレデターとアンドロイドとゲンナ星の生物しか出てきません。
結果、人間が一人もいないという映画になっているにが面白い点です。
にも関わらずストーリーは伝統的な主人公の成長もので、大事なのはファミリーという王道の結論に至ります。
なので、私は本作を観てどうしようもなく懐かしいものを感じていました。
正直、プレデターが主役でなくとも、西部劇でも同じ作品が作れそうとも思ったくらいです。
それくらい根本は正直な作品に感じましたね。
逆によくなかったと思うのはデクが最弱という設定ですね。
明らかに一族の中でヤル気は凄く高いですから、それで最弱というのに無理があります。
寧ろプレデターの中でも知性に長けた側の存在なら納得も出来ます。
戦いなどに興味はなく、知的探求をするような者なら武闘派の父から疎まれるのも納得です。
しかし、そんなこともなくデクの弱い面も見せないで最弱とするのは腑に落ちなかったですね
更に父が兄まで手にかけてしまうのにも納得がいきません。
それだったら最初から二人の兄弟が父に命を狙われていたくらいの方が納得出来ます。
そういった細かい部分でちらほらと納得のいかない部分があり、それが作品のマイナスに繋がったのは確かです。
ということで、プラスマイナスを差し引きして、まあまあの出来でしたが、プレデターの映画の中では間違いなく上位に位置する映画なのは間違いないですね。
今後はプレデターという枠を超えて素晴らしいと思える作品になって欲しいものです。
何やら続きそうな終わり方もしていますし、やるのなら間違いなく観に行くとは思いますね。

■今週のコメダ
シロノワール ブラックモンブラン -宇治抹茶仕立て-
名前が長すぎですが、割と名前の通りではあります。

パフェ同様、チョコが固まっていますので、結構食べ辛いです。
勿論、抹茶との相性は良しなので、満足しました。

鬼滅の刃から始まったであろう、新シーズンの頭出し上映という形式は純粋な映画ファンから否定的な意見が出るのも仕方の無いことだと思っています。
前回の「懐玉・玉折」編に比べると、圧倒的にダイジェストで構成されていて、シリーズ未見の観客にはわけのわからないものになっているのは確かです。
しかし、本作は映画というよりもファンサービスイベントのようなものです。
それこそ、新シーズン開始の前夜祭として扱うべきものなのでしょう。
なので、映画としての評価は全く不要で、今迄シリーズを見続けた目線で楽しめたかという基準で判断すべきでしょう。
そういう意味で私は個人的に十分に楽しめました。
そもそもこのシリーズのクオリティが映画レベルなので、全て劇場で鑑賞するのが最適なのです。
今回、その一部でも劇場の大画面で観ることが出来たのは凄く良かったです。
逆に本作を観たら、もう一度本編を見返したくなるのは必然だと思います。
そして、見るのなら極力大きな画面で見たいところです。
少なくともスマホやタブレットでの視聴はオススメ出来ません。
また、昨今は通常のシリーズでもクオリティが尋常でなく高いので嬉しくもある反面、制作側の負担が心配です。
そういう意味では映画という形で少しでも製作に還元して欲しいと願います。
そういった諸々の事情を込みで、この形式の上映には賛成派だったりするのです。

渋谷事変は五条悟を封印するのがメインシナリオで、同時に大量の犠牲者の出る章です。
特に七海と釘崎というメインメンバーの脱落は大きかったと言えます。
敵側も夏油以外は大半が倒されるという総力戦の様相でした。
昨今の作品は主要キャラでも容赦なく死亡するので、本当に気が抜けません。
昔のヒーローものだと、メインメンバーは危機に陥っても死にはしないという補正がありました。
しかし、それはそれで無理が生じることが明らかになったと思うのです。
それは同じジャンプの「 Bleach」によるものではないかと思うのです。
こちらも死闘を繰り広げますが、隊長格は一切死なないという展開が続きました。
死んだと思わせるおいて実は生きていたという展開も何度もありました。
それこそ補正がかかっているように不自然なものに見えたのです。
そういった作品から学び、メインキャラと雖も死にうる展開に舵を切ったようにも見えるのです。
しかし、敢えて言えばメインキャラの死の流れを決定付けたのは「 神撃の巨人」だったようにも思うのです。
このように漫画の世界も日々進化し続けています。
それこそが、漫画というものを陳腐化させない大切な要素であるように思うのです。

死滅回游は、先ずは乙骨の登場が嬉しかったですね。
元々は彼が主役の物語でしたが、彼は零で自分のあるべき姿を見出します。
要するに、彼は前作で完全に成長しきってしまったのです。
同時にそれは成長する要素を失ったということでもあるのです。
それに比べて虎杖は、本作で大きな迷いに葛藤して苦しみます。
この迷い、苦しみこそが主人公に必要な要素でもあると思うのです。
葛藤する主人公という点で言うなら真っ先にエヴァンゲリオンの碇シンジが思い浮かびます。
実際、零の時の乙骨の葛藤シーンは、声の影響もありシンジと被る所もありました。
しかし、本最右の乙骨は明らかにシン・エヴァの後半のシンジに同じでした。
そういう意味でも、虎杖の方が主役に適しているのでしょう。
やはり、キャラというのは深く苦しみ、絶望、悲しみを背負うことで深みがまします。
私自身、序盤の虎杖については然程感情移入していなかったのですが、渋谷事変以降の業を背負った彼の方に共感出来るようになったのです。
まだ彼は完全には全てを受け止めきれていない部分もあるので、そんな彼の成長も含めて今から新シリーズが楽しみで仕方がありません。