「悲しい話」

私は30年余にわたり、八千代市の交通安全協会と八千代地域交通安全活動推進委員協議会に所属し最近はその役職を務めている。

同協会及び協議会は、交通安全を通して地域に貢献する組織であり、警察署から警官の制服と同じ制服着用を許されている唯一の会である。

コロナ禍明けの久し振りの総会の席で、事務局より悲しい話を聞かされた。長い活動の中で初めての経験であった。

聞けば、市役所に京成線K駅周辺地域を担当する我が支部へのクレームであった。

『毎朝通学時に知らないオバサンに話し掛けられて子供が困っている。家庭では、知らないヒトとは話をしないように言っているのに、話し掛けられて迷惑している。このヒトは安全協会の人なのか?そうであるならば注意してほしい。』と言う内容であった。

当支部では、16号線に通じる交通量の多いK交番前の交差点で、春夏秋冬の全国交番安全運動期間中に小学生の通学時間帯の早朝7時から8時まで、学童らの交通安全を目的として街頭監視を行っている。

その際に、毎朝、交通安全に活躍している元気なおばさんがいる。

我々の街頭監視は各2週間であるが、このおばさんはお子さんが最寄りの小学校を卒業後も何十年もの長きにわたり、たった一人で「おはよう!気を付けてね。!」と大きな声で子供たちに声掛けしながら、交通整理に勤しんでいる。

その長年の功労に感謝して学校の先生方や父兄の方々にも認められて、学校の行事にも呼ばれている方で、周辺では有名人である。我々も畏敬の念をもって接している。

我々が街頭監視をやっていて思うことは、今の小学生は挨拶がろくに出来ない子が多いと言うことである。

「おはよう!気を付けてわたってね!」と呼び掛けても、まるで能面のような顔で無視されるのがオチである。
だから、このおばさんのように大人の方から積極的に声掛けするのは、大変なことである。

そこで批判を恐れず私見を述べれば・・

「あのおばさんは、毎日あなたが交通事故に遭わないように一生懸命頑張っている人なのよ。
忙しいなか毎朝、あなたを護るために働いてくださる人なんだから、感謝しなけりゃいけないよ。」

「だから、あのおばさんは会ったら、おはようございます。いつも、ありがとうございます。って、あなたから声掛けしなくちゃいけないよ。」と、なんで教えないのだろうか。

毎朝、横断中の黄色い旗をもっているのに、知らないヒトだからはないだろう。
自分たちのためにやっているのが分からないようでは、その子の将来が危ぶまれはしないか。

話をしていい人かいけないヒトかは、知らないヒトか否かではなく、その人の行動を見て見分ける力を幼い内から付ける訓練をしなければいけない。さもないと、その見分ける目を潰しているように思えて仕方がない。

日本人は、いつからヒトのために努力している人に対して、感謝の気持ちを持たなくなってしまったのか。
自分第一主義もいいが、この子が大きくなったら人の気持ちに寄り添うような考えを持たないかもしれない。それは、思考の欠如の負の連鎖と言えまいか。

名も知らぬ市井の普通の人が自主的に地域に貢献する姿に、クレームを付ける親御さんも、同じように育てられたのかもしれないと思うと、怒りの後から悲しい気持ちにさせられた。

何もけっして、感謝をもとめているのではありません。
ただ、価値観の異なる人を排除しない寛容さを持って、優しく見守って欲しいと思うだけであります。

『何もこっちから頼んでやって貰っているわけではない。うちの子供に声を掛けないで。アンタが勝手にやっていることだから、感謝しろ。はないだろう。はた迷惑なんだよ。』と言われたら万歳するしかない。
つまりは、お手上げだ!

もっとクレバーなクレームを期待したいものだ。

「二十歳(はたち)過ぎまでの子の行儀」

幼い頃に躾(しつけ)ければ身に付くが、成人した子には、親の意見は手遅れである。