「正月ボケ・平和呆け・エロ惚け」
2026年のお正月三ヶ日は穏やかな日和で迎えた。
だが、世界の情勢を見渡せば民主主義国家も全体主義国家もトップが年寄りばかりとなった。
人間、歳をとってくると、自分の思い通りにならない者、言うことを聞かない者、意にそまらない者に対して露骨に排除し忌み嫌うようになるらしい。
おまけに○○ファーストと呪文を唱えて、その権力と軍事力を背景にして弱肉強食たばかりに己が欲望にばく進するあまり、あちこちでギーギーと軋みが生じてキナ臭い情勢になってきた。
その為か、最近はやけに威勢のいい声のデカイ奴が跋扈(ばっこ)するようになってきた。
皆が考えない時代には話の上手い政治家がはびこり、大衆は強い者を愛するようになる。
が、情熱的に支持される意見には決まってまともな根拠なんて存在しない。とバート・ラッセル(英国の哲学者)も述べている。
戦争を止めさせるために戦争をする。そして、戦争はいつも平和と正義の大義を振りかざして引き起こされる。
しかし、この世の中に絶対と言う大義などないのである。人の為と書いて偽(にせ)となる。如くである。
また、己が欲の前には恥と言う字が死語になってしまったかのようである。
「高齢者の暴挙とかけて、脳内はバーチャル身体はリアル」と解く。
その心は、
「頭の中は人妻を欲しがる妄想で満たされた仮想空間だが、身体はボッ○不全の役立たずの現実実態なり。そのギャップの反作用が暴挙の虜なって何処に向くかが怖い」の意。
出来もしない空こそ、その代わりに見境もなく見栄を張る悲しい性か。
故に、横車のブレーキとアクセルの踏み間違いで事故(紛争)を引き起こす。
年寄りは気が短いと言うけれど、年寄りだからが悪いのではなく、妄想と欲望に駆られる元々の本性が現れただけではないのか。なにやら背筋に悪寒が走る。
お正月だからマトモな話はこれぐらいにして、同じ後期高齢者(ホントは高貴高齢者と言われている。)でも市井の私なんぞの人間は、幾つになってもくだらないことを覚えているものである。
小学生低学年の頃の話。
実家の近所に比較的裕福なお宅があった。まだテレビがある家が珍しい時にそのお宅だけテレビを購入していた。
夕げ時分になると近所のガキどもが大挙して「すいません。月光仮面を見させて下さい。とか、プロレス中継を見させて下さい。」と遠慮しいしいズズシクも居間に上がり込んでテレビを見させてもらったものだ。
ある時、誰が見てきたのか?(まあ、そりゃ無いわな)言いだしたのか?「この家のじいさんとばあさんは、毎晩スッポンポンの真っ裸で抱き合って寝ているらしいぞ。いい歳してスケベだなー、イヤラシーなあ~。」と、好奇心旺盛なチェリーボーイ(童貞)のガキどもは、よるとさわるとまことしやかに噂し合ったものだ。
当時のことだから、爺さん婆さんと言っても50代半ばの年齢である。
その齢をとうの昔に越えてしまった年齢になっても、正月になると不思議に記憶が蘇るのである。性の目覚めに妄想に駆られた少年時代の平和ボケの思い出の欠片である。
またまた話を変えて。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休禅師)の年齢となり、少しは進歩を見せねばと、意味深でチョッと難解な色惚けジョークを披露したい。
ルーブル美術館にある勝利の女神「サルモラケのニケ」の彫像には両腕が無い。
後に右手の手が発掘されたが、その手には親指と薬指しかなかった。
ほかの指は何処に入ったままなのか?
もしかして、
人差し指と中指は前のア○・・・
小指は後ろの○ナ・・・
わかったかな?
本邦にもこれに匹敵する唐津の殿様の破礼句(ばれく)がある。
「門口(かどぐち)で 医者と親子が待っている」
まあ、どっちもどっちだが、洋モノに1本負けてはいるけどね。
正月ボケ、平和呆け、色惚けのこんな年寄りの方が如何にも安心安全であると思うのだが・・・ね、
全てのコミュニケーションはエロスに通じる。
男も女も心の中にいつまでも枯れることのないエロスの泉を持っている。これが枯れると恥を知らない非情な妄想の虜となる。恐ろしいことである。
