本を読めば、映画のことがよくわかるかな、なんて思って購入し読んでみました。



 本を読んだら、わからなくなりました。設定が色々と違うから。小説と映画では変わることがあるけど、なぜ、映画ではそういう設定に変えたんだろか?なんて思ってしまうのだ。

もう一度読んでみました。

さらに、もう一度、そして、もう一度。何度も読み返しました。


 小説を読み返しの間に、Amazon Prime videoで「世界から猫が消えたなら」を見直ししちゃいました。

 川村元気さん小説をもとにした映画だから。

 


 《小説を読んでの感想》

 登場人物の人たちの感情を私は持ち合わせてないからわからないのか?

 私が経験したことない人たちが出てくるからかもしれない。

 映画と同じように、春さんの気持ちならわかるような気がするのだ。

 感情が似ているという人と出会うことが難しいのかもしれないと思った。

 でも、感情が重なり合う瞬間はある。登場人物の気持ちが重なり合う時はあるが、この重なりが多ければ、わかるけど、少なく感じてしまうとわからないが多くなってしまったのだろう。

 人は、自分と似た感情を探して、安心するのだろうし、興味を持つのだろう。

 登場人物の人たちが、私と全く違う人だと思うかと思えば、重なる部分はあるような気もしないでもないと、何度も読んでいると感じてくる。

 何度も読むことで私は少しずつ理解していった。


 

 「恋は風邪と似ている。春との恋は違った。彼女との恋に落ちた瞬間を藤代ははっきりと覚えている。あれほど心が動く瞬間は、もう二度とないように思えた」と書いてある。


 藤代さんは、普段直感で生きている人ではないのだろうなんて思う。

 人は成長すると、右脳な生き方から左脳な生き方になるから、直感で生きていることが少なくなるのかも知れないが、藤代さんは、普段は、自分の直感を大事にしないでいるような気がするのだ。

 そんな藤代さんも、春さんに恋をした時、弥生さんに恋をした時、直感で自分を動かしていた。

 

 弥生さんとの会話は、当たり障りのない言葉を重ね、相手を傷つけないように、自分の思う言葉を飲み込んでいる感じだ。同じ思いであるとここで言ったら、この関係は失うと思ってだろうか?面倒臭いことになるだろうからと踏み込まないのか?

 言ってしまったら、終わりそうな関係になりそうな感じもするけど。その点、弥生さんは藤代さんが思う言葉を直球で伝えてくる。でも、弥生さんの言葉は、藤代さんを知るための試し行動にも見えてくるが、自分は冷静でいないといけない気持ちから、誰かの言葉を使って、藤代さんを確認しているのだろう。

 お姉さん(弥生さん)をみて妹は、「なんで欲しいものを欲しいって思っちゃだめなんだろう。どうして重いことを相手に知られちゃだめなんだろうって。そんなに自分の気持ちが相手に伝わることは恥ずかしいことなのかな?」と思っていたことが書かれている。


 藤代さんは、弥生さんのこと好きなのか?弥生さんの変化に興味持っているのか?と小説を読んでいると思ってしまう。言葉にしてはいるが、自分が何を伝えたか覚えていないようだ。伝えることを大事にしているようで、その場だけを大事にやり過ごしているように感じるのだ。


 精神科医は、合理主義者が多いとこの小説に書いてある。

 藤代さんも合理主義者なのだろう。

 藤代さんはもともとお持ちなのかな⁈それとも父親の影響で身につけたのかな⁈

 両親が離婚する時に、ちらっと父親のことを書かれたいたので、遺伝なのか⁈環境なのか⁈かどちらかわからないが、子どもの時から合理主義者なのだろうと感じる。

 

「精神科医というのは多かれ少なかれ、自分が患者なんだよ。ほとんどの精神科医が不思議と自分が抱える問題と同じ分野を選び、自分と似た患者を診ることになる。僕たちは他人を治しているようで、自分のことを治療したいだけなのかもしれない」と藤代さんの言葉。


 だから、映画では、弥生さんが患者としての設定に変えたのかしら?と想像する。

 

 「その一瞬が永遠に続くはずだ、というのは幻想ですよ。それなのに、男と女が運命的に出会って恋に落ち、一生の伴侶として愛し合うということが前提になっているのがおかしい。誰と恋愛しても行き着くところは一緒なんです。」という言葉

 「みんな他人が作り出した価値観に敏感すぎる」という言葉


 好きも愛も見えるものではない。

 永遠なものでもない。
 なぜ、その人を好きと言えるのか?
 相手のことを本当に知っている自信はあるのか?
 結婚は、その人を愛し続ける自信があるから?

 結婚式で誓い合うのは、必要な儀式。責任を持たせるためにも、なのだろうか?


 ハルさんも弥生さんも、藤代さんが一体何を考えているのかわからず、不安になる。でも、藤代さん自身が自分をわかっていないんだから、難しい話なのだと思ってしまった。

 

 ジョハリの窓が思い浮かんだ。

 ウキペディアから図をスクショさせて頂きました。



 自己理解を深めるためにグループワークでよく利用されるツールだ。


 開放の窓とは「自分も他人も知っている領域。自他ともに理解している性格。

 盲点の窓とは「自分では気がつくことができていないが、他人は知っている領域。個人の思考やクセや思わぬ長所など。

 秘密の窓とは「他人には知られていない、自分だけが知っている領域。コンプレックスやトラウマなども入る。

 未知の窓とは誰からもまだ知られていない、自己も他人も知らない領域。秘められた性格や才能など。

 

 藤代さんは、弥生さんと出会った時に美しいと感じ、何回か会うことでこの人と付き合うかもと感じていた。

 出会った時には、弥生さんは半年後に結婚する人がいた。幸せって言葉、なんか苦手なんだよね、という弥生さん。


 ハルさんとは、好きなものを共有することができた。

 同じものが好きだというだけで、運命を感じたり幸せだと思ったりする。

 でも、自分でも気がつかないうちにそれが反転してくる。

 年を重ねるにつれ、相手が隠している部分に惹かれるようになってきた。隠している部分というのは、だいたいその人の弱い部分だということだ。

 弥生さんとは、嫌いなものを共有することができた。

 とこの小説には書かれていた。


 藤代さんは、月日が経つと、弥生さんの性格はとらえどころがなくなって、どこに惹かれたのかわからなくなった。

 藤代さんにとって結婚とは?

「ある程度の年齢までに結婚して、生涯妻だけを愛して添い遂げるというルール」と言葉にしているように、年齢的に丁度出会った弥生さんとルールに則って結婚しようと思ったのだろうか?


 愛を終わらせない方法は一つしかない。それは手に入れないことだ。決して自分のものにならないものしか、永遠に愛することはできない。

 これは、3年前の一緒に家で観た映画の弥生さんの感想に対して、はじめて、弥生さんと美しいものを分かち合うことができたと思った瞬間の言葉である。


 これって、どの人に対しても、全ての心を手に入れようなんてできないから、だったら、誰もが愛を終わらせないでいられるじゃないのかな⁈と思ってしまう。


 自分のものにならない、結婚したら相手を自分のものになるわけでもないと思う。

 相手と生活を一緒にしたいと思い続けるかどうかだと思うからだ。


 「ほとんどの人の目的は愛されることであって、自分から愛することではないんです」という言葉を発している人が本の中に登場しているが、確かに愛されるために相手に何かするのかもしれないと思う。


 考えて思い浮かんだのが、無償の愛か対価の愛かという話なのか?なんて思ってしまった。

 恋愛や結婚は、はじめは無償の愛ではじまり、だんだん、対価の愛に変わり、対価を感じないと終わってしまうということか?


 はじめはお互いを理解したいと思うし、喜んでもらえるだけで嬉しかったりするものだ。だんだん、自分だけを見てくれなくなり、不安になってくる。

 自分を愛せない人は相手が見えないと不安になりやすいと思うのだ。

 こんなもんだと頭に言い聞かせている人も、我慢の限界で不安や不満が多くなる。

 相手に期待しないといいながら、期待していることに辛くなってくる。

 


「恋愛って基本的にいつか必ず終わりがくる」

「誰かを好きになって別れる。悲しい結末がくることがわかっているのに、同じことを繰り返している」

「結婚することで、その繰り返しを終わらせようとしている」

「神経衰弱みたいなもの。自分と同じ部分を見つけていく。美しいところも、弱いところも」

「幸せって言葉は苦手。だって曖昧じゃない。誰かと比較できるものでないし」


 悲しい結末になるのはどうしてだろうか?

 別れを悲しい結末にするから、悲しくなるのではないだろか?別れた当初は悲しいけど、思い出に変えたり、学びに変えることにして、次の恋愛に繋げれば、次は前回よりも愛が長く続くんでは?と思う。その人しかいないと思っていたから、辛いんですけどね。

 はじめから上手くいくことって、ほとんどないのが当たり前なんじゃないだろうか?

 確かに初恋が実って結婚する方もいるけれど。

 王子様やお姫様のような恋愛を想像していたら、多分上手くいかないだろう、なんて思う。

 

 幸せが自分ではっきりできなければ、幸せになることはないような気がする。

 幸せの言葉が苦手時点で、幸せが半減している気がしてならないのだ。

 

 恋愛している時は、永遠に続くと思うから、今度とか後回ししても大丈夫と思ってしまうのか?

 今を大事にできなくなっていくのかな?


 今、その瞬間の気持ち、なぜ行動しなかったのかと後悔して、手に入らないものに愛を注いでいるのだろうか?


 弥生さんが失踪したのは、藤代さんとのあいだあったものと、いま失ってしまったものを取り戻したいから。

 

 

 藤代さんと春さんが別れた時は、映画では、旅行に行く時に、お父さんを選んだことであるが、小説では違う人だった。

 

 

 春さんは藤代さんのことが好きであったが、藤代さんも春さんが好きだったけど、好きの気持ちよりも不安の方が大きくなってしまったんだろうなと思う。

 失う怖さを自分で断ち切ることで、解決しようとしたのかと思う。


 藤代さんも弥生さんも春さんの手紙で心を動かされた。

 藤代さんも弥生さんも二人とも、今を失わないようにしないとって思ったのだ。


 一度、恋愛で失う怖さを知ると、次の恋愛こそはうまくいくようにしようと思うが、どんどん無難にいこうと働いてしまうのかもしれない。傷つきたくないし、失いたくないから。

 藤代さんも弥生さんも似ていたのだろう。

 だから、同じような感情で相手に接してしまったのだろうかと思うのだ。

 無難にが、結果として、失いつつある状況になってしまった。

 恋愛だけでなく、色々な場面で結果的に手に入らなくなることってあるよねと思う。

 無難は、意外と無難ではない。

 本当に手に入れたいものだったら、「じたばたしたり、あがいたりする」もの。「人を誰のことも愛せないと気がついたときに、孤独になるんだと思う。それって自分を愛していないってことだから」と書いてある。

 まずは、自分を愛せる行動することが大事だと思う。

 

 春さんのことを好きと言っていた人の言葉

「わかりあえていることがすべてではないと思う。わからないけど、一緒にいたいと願う。少しでも気持ちを知りたいと思える」それが春さんにとっての恋なんじゃないかなと。


 だから、私は、春さんが理解できるような気がすると思うのだろう。


 いつも頭で考えてしまう人にとっては、直感って大事だなと思う。カウンセリングの中でも直感の話になることがあるが。心が動かされた時に、動いてみる。例え後悔が生まれても、やらないよりはやった方が良いになるのでは?なんて思う。

 ついつい、やっぱりやらなきゃよかったと思ってしまう私なんですけどね。

 

 

 弥生さんが4月が嫌いなんて小説にはない。なんか、映画レビューで感想してしまった私には、ちょっと騙された気分になってしまった。



 さて、もう一度、映画を観てこようと思う。