午前十時の映画祭で、上映されていたので観ました。
 1999年に日本で公開。約20年の時を経て、2020年に4kデジタル修復版、そしてイタリア完全版として再び劇場公開された。
 そして、今回、午前十時の映画祭で4k版を再上映ということなんですね。

 はじめてこちらの映画を観ました。

 


《あらすじ》公式サイトから


枚のレコードに秘められた、たった一度の恋。

大西洋を巡る豪華客船の中で、生後間もない赤ん坊が見つかった。彼の名は1900=ナインティーン・ハンドレッド。世紀の変わり目を告げる1900年に因んで名付けられた。彼は船内のダンスホールでピアノを演奏し、類稀な即興曲を次々と作り出していった。そんなある日、彼は船内で出会った美しい少女に心を奪われてしまう。彼女が船を去った後、断ち切れない彼女への想いから人生で初めて船を下りることを決心する


今回、「4Kデジタル修復版」ではトルナトーレ監督本人の監修のもと、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』なども手がけてきたカラースーパーバイザーのパスクアーレ・クズポリと共に、イタリアはルーチェ・チネチッタ・ラボにおいて完全修復作業が行われた。オリジナル35mmネガを4Kスキャンし、煌びやかな豪華客船の内部や、青く透き通るような海など、これまで表現しきれなかった細部まで色彩豊かに蘇っている。


音楽を担当するのは、言わずと知れた映画音楽界の生きるレジェンド、エンニオ・モリコーネ。メインテーマから劇中でナインティーン・ハンドレッドが演奏するジャズナンバーまでほとんどの楽曲をオリジナルで作曲している。


 実話なのかな?なんて思ってしまうような物語であった。調べてみると、劇中に登場したジェリー・ロール・モートンは、実在のピアニスト。そして、劇中のヴァージニアン号は1904年から1954年まで実在した船だということだ。

 1900が奏でるピアノは素晴らしかった。

 1900を演じたティム・ロスは、本当に弾いているのかと思ったが、過酷な特訓の末の演技なのか。見事だと思った。

 

 客船のお客さんをみて、どんな人か想像して即興して奏でるピアノ。

 1度だけ恋をする。少女に恋をして奏でたピアノ。

 奏でる音楽が素敵でした。

 自分も客船に乗って、演奏を聞かせてもらっている感覚にもなりました。

 

 船から一度も降りたことがなかった1900。彼女に会いに行ってみたいと思い、降りてみようと決心してみますが、タラップから見た街並みに怖さを感じて、途中で引き返してしまうのだ。

 そこから一度も降りることはなく人生も終えてしまう。

 もし、赤ちゃんの時にお金持ちが船から下ろしてくれたら、どんな一生を終えていたんだろうか?

 赤ちゃんは自分の運命を変えることはできないのか?

 ダンスホールのピアノの上に捨てられた時に人生が決まってしまったのか?

 

 海から陸を見ると終わりのない場所、自分がどう終わらせていいのかわからない場所なのか。

 客船は、2000人の乗客を乗せて、決まった航路という枠がある。88鍵盤の中でなら、無限に音を奏でることができる。

 自由に奏でているのをみると、陸でもピアノがあれば大丈夫じゃないのか?なんて思ってしまう。

 トランペットの人、マックスと一緒だったら、なんとかなるんじゃないのか?なんて思ってしまう。

 こっそり船の中から陸の誰かと話をすることを楽しみにしていたから。陸の人と繋がりたいんだよね。陸の中を知りたいんだよね、なんて思うのだ。


 でも、陸を一度も降りたことがなければ、一歩を踏み出す勇気は相当なものなのだろう。

 不登校の子やひきこもりの人と似た気持ちなのかな?とも思ってしまった。

 不登校の子やひきこもりの人も家の中で安全だからこそ、そこの中では自由に暮らすことができるのかなと。

未来は自由なんだ、自分で切り開けるんだよ、と伝えても、未来がわからないのだから、無限を言われたら、恐怖でしかないのかもと思った。未来を想像してと言われても見えない。わからないことは恐怖なのだろう。ある程度範囲があるから安心なのだ。一度、家の中に入ってしまったら、一歩を踏み出すことはなかなか容易ではないのだろう。

 楽しかった世界を知っているのであれば、また、外の世界に戻ることが出来るのかもしれないと思うが。狭い範囲で暮らすことが長ければ長いほど、外の世界に出る勇気は相当だろう。

 我が子もそんな気持ちなのかな?なんて思ったからだ。自分のわかった範囲でしか動かないから。自由を求めているのに、自分の見える範囲での自由だから。

 不登校もひきこもりも色々な事情があるとは思うが、1900の無限、終わりのない、陸での怖さは似たものなのかな、とふと思った。

 

 1900も子どもの頃、陸に降りて、生活をしていたら違っていたのだろう。

 子どもの頃の実体験が必要なんだろうと感じてしまった。

 好奇心旺盛だったら、陸に降りていったかもしれないが、1900は繊細な人なんだろうと思った。


 ピアノという世界があれば、船に乗ってさえすれば、人が訪れて、楽しんでくれる生活がある以上、それ以上のことを望まなくても楽しい毎日だったんだろうと思う。1900が自分勝手に音楽を奏でても、周りが楽しんでくれるのだから、ありがたい環境であると思った。


 1900に、他の客船を用意したらどうだったんだろうか?まだ、生きていかれたのだろうか?なんて考えてしまったりもするが…。

 

 1900には、自分で選択して生きて行かれる力はなかったのだろう。

 誰かから与えられた人生の中でしか生きてこなかったのだから。いつも、受け身の中で生きていたのだと感じる。

 自分が選択したのが、こっそり陸に住んでいる人にする電話と少女に口づけなのかもしれないと思った。

 (好きになった人を探して寝ているところにキスは、えって思ってしまいますが。)

 

 1900にとっては、船の中は、母親のお腹の中にいる状態と一緒なのかな、なんても思ってしまった。 


 また、1900は、船に乗った人しか出会えなかった人物。

 船はそれだけ夢の場所だったということなのかもしれない。

 一度、陸から離れて、新たな生活を目指す人、夢や希望を運んでいたり、陸での生活を忘れておとぎの国のような空間なのだろう。

 ただ、幸せを与えていた人なのかもしれない。

 船が終われば、自分の役目も終わってしまったのかもとも思う。


 自分がマックスなら、どんな声かけができるのか?

 声で動かすなんて無理な話と思った。説得するには時間がない。やれるとしたら、実力行使で、担いで出すしかないだろう。命を大事にするならと思う。

 マックスは、1900の気持ちを大事にすることを選んだのだろう。

 気持ちなんてあとからなんとでもなるなら、担いで出すしかないだろう、なんて思う。そして、24時間一緒に。1900が陸での生活が慣れるまで。仲間を探して、一緒に生きていくことだと思った。容易ではない。マックス自身に生きる力がなければできないだろう、なんて、勝手に思ってしまう。


 音楽が、素敵だった。

 少女に恋をした時の奏でるピアノは、私も好きになった。

 

 イタリア版を観ると、もう少し心情がわかるようだ。

機会があれば観てみたいと思う。映画館で。