映画のあらすじを読んで、興味がそそられた。

 R18+かと思うと躊躇してしまいましたが、評判を見ると良さげだったので観に行ってきました。言葉に表すとただ要約していってしまうだけになりそうで、表現する難しさを感じますが、私は観て良かったなと思う作品です。


 舞台は19世紀後半のロンドン。若くして女性ベラ・バクスター(エマ・ストーン)は、自ら命を絶ってしまいました。しかし、天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)の手により、ベラは赤ちゃんの脳を移植され、奇跡的に生き返ったのです。ベラは、ゴッドウィンを父親的存在とし、ゴッドと慕っていました。脳を移植されているので、前記憶がありません。

 

 ベラは歩き始めたばかりで、大人の身体を操るのは難しいっといった感じの場面から成長していく物語となります。


 赤ちゃんの脳を移植したというが、一体どんな赤ちゃんの脳で移植したんだろうか?また、なぜ、死にたくなってしまったんだろうか?と疑問に思いながら観ていました。


 何でも好奇心、繰り返しが好きな時期なので、ピアノを鳴らしてみたり、皿を何度も割ってみたり、やりたい放題、好き放題。生まれ変わっている状態なので、ゴッドのマネをして食べものを口にしますが、好みでないとペッとそのまま吐き出します。好きか嫌いか、心地よいか心地よくないかとか、そんな感情で捉えている段階にいるようです。

 

 ゴッドは、マックス・マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)を助手にして、ベラのことを記録して欲しいと頼みます。

 ベラは日に日に好奇心旺盛が増していき、活動的、やりたいことがやれないと癇癪を起こします。制限をかけないと収拾がつかなくなります。子どもを育てる大変さを表し、また、大人の都合を感じる部分も見られました。


 ベラの前で手術を行うので、自分もやりたいと興味を持ち始めます。死体しかダメだと言われ、死体にやりたい放題はグロ過ぎるが、親のマネをする姿、子どもの無垢さ、残酷さを表す描写としてのシーンを強調しているものなのかな?だから、こういうシーンになったのかな⁈と感じました。

 何度か手術シーンもグロさを感じる時があります。でも、こういった手術を行ってくれることで私たちは生かされているんだろうなと思うとグロさも和らぎます。

 

 マックスは、日中はベラにつきっきりで、記録していきます。はじめは手に負えず、なぜ、こうなってしまったのか、身体に傷もあり知りたくなります。ゴッドに詰め寄り、ベラの真相を聞きだします。


 ゴッドは、マックスにベラとの結婚を持ちかけます。マックスはベラとの結婚を受け入れ大切にしようと思いますが、ゴッドはベラと結婚するための誓約書を作り、弁護士のダッカン・ヴェダバーン(マーク・ラファロ)にお願いします。ダッカンは、なぜ誓約書を作るのか、ゴッドにとってどんな大切な女性なのか知りたくなり、ベラを探しに行きます。ダッカンは放蕩者で、ベラを見て興味をもってしまうのでした。


 この時期のベラの自慰行為は、幼児期の成長の過程で、一時的にある自然な行為だろうと思ってみてました。


 ダッカンはベラの美しさに惹かれて、自分のものにしたくなり、外を知りたくないか?と大陸横断の話を持ちかけるのです。


 ベラは、興味津々で、ゴッドに行かせて欲しいとお願いします。ゴッドは、はじめはダメと拒否しますが、かわいい子には旅をさせよという心境になったのか、お願いを飲み込み、旅行の準備をさせます。マックスは行くのを阻止しようとしますが、ゴッドがベラをどうにもならない時に止める方法を使って、強行手段で旅に出かけて行ってしまうのでした。先の行動が読めないので、欲望のままに行ってしまったのです。


ここまでの映像は、ベラの幼児期の成長過程なんだね、と思うが、ただ、エマ・ストーンの女優魂を感じ、感情移入するよりも、ただただ、エマの凄さを感じて観ていました。


 大陸横断旅が始まり、ベラはまだ、ボキャブラリーが少なく、知っている言葉と興味ある話しかしない幼児。なので、相手に失礼な話はするし、相手になんで言ってはいけないかわからないので、ダッカンは3つの言葉だけで返事しろといい、言いつけを守りますが、会話がチグハグで余計ひどい話となります。

 子どもは大人の言葉の意味を汲むことはできない。大人の自己都合に合わせられるわけがない。ベラの容姿は大人ですが、中身は幼児であることを忘れてはならない。ダッカンにも、同席した人にも意味はわからないでしょうけど。

 大人は案外、子どもだということを忘れがちになることってあるな、なんて思いました。大人は、できるわけないところを恥かかせてと怒ってしまう生き物なのかもなんて思いました。容姿が子どもであっても、子どもだからと笑い飛ばせずにいることってあるなと。子どもが必死に大人に合わせていくことたくさんあるんだろうなって思いました。

 また、子どもは意味もわからず大人の会話に入りたくなるものでもあるな、なんて思いました。

 笑う場面を深く考察してしまう。


 ダッカンは、自分が世界を教えることの喜びを感じ、独り占めの幸せを味わいます。しかし、ベラは、どんどん外の世界に目が向き、自分の目で感じとって、吸収していくので、ダッカンの目から離れた場所に行ってしまうのです。ダッカンは嫉妬深いのです。

 手の中に居て欲しくて、狭めた場所に移動させますが、知性のある方と出会うことで、本も読めるようになり、知性が生まれ、理性が生まれ、あらゆる体験が心を豊かにしていく。ベラをみて、出会う人、環境の大事さを改めて教えてくれます。一方、成長が止まっているダッカンはベラに執着していきます。ダッカンの振る舞いは、段々痛々しくなっていきます。とにかく、力づくで人を動かそうとしてタチが悪いです。ダッカンの精神年齢はいくつなんだろうか?なんて思います。


 ベラは、旅の途中途中で、ゴッドにハガキを出すのですが、はじめは、幼児が書いたような文章で意味不明な文章でしたが、成長していっていることが伺える文章に変わり、知性が身についたことがここでも伝わってきます。

 

 人の痛みがわかるようになったベラは、ある光景に、どうにかして手助けしたいと芽生えるのです。でもこの行動はダッカンの許可を得ていないので反感を買うことになりますが、体験が多様な知性と感性を育て、人の痛みを理解していかれるのだと感じます。


 お金がなくなってしまったベラは、老女か立っているところへ訊ねに行きます。ホテルかと思っていったら、身体を売る場所であること知ります。生きるために働き、体験することが自分の人生の糧になるとわかり、娼婦となるのです。まぁ、ベラは働く場所は、娼婦しか知らないでしょうし、即お金になるとしたら、そうせざるを得ないでしょう。

 ダッカンは物事を一方的にしか捉えず、ベラを自分の理想像に仕立てあげようとし、執着心の塊です。

 ベラは娼婦でたくさんの男性に会い、色々と考えます。なぜ、女性側から選べないのか?嫌なお客でもやらなきゃいけないのか?と疑問がわきます。次々と性描写が映し出されていきますが、男性に支配されていることが1番わかりやすく.、伝わりやすく、表現しやすかったのが性描写だったのだろうと思います。また、色々な人がいることの伝えやすさもあって、ああいう描写になったのだなと。

 ベラの人生は、ずっと、男性に支配されてきているのだと感じます。


 マックスは、ゴッドの容態があまりよくないので、ベラを探し出し、ベラをゴッドの元へ帰るように促します。

 

 マックスは、ベラを受け入れ結婚しようとするところで、ダッカンの粘着質により、ついに、ベラは誰なのかがわかり、赤ちゃんの正体もわかってきます。

 ベラは、マックスと結婚できず、死ぬ前の生活に戻らなくてはならなくなるのです。脳が変わっているので、死ぬ前の生活を思い出すことができないのですが、この生活をしていたから希望を見失い、自ら命を投げてしまったのだと悟ります。

 あれは地獄ですね。自分の恐怖を支配で何とかしていく人との生活に生きている意味がなくなります。

 自分の幸せのために、今度は死ぬわけにはいかない、自分の命を守りきります。色々な体験が強くなったのだと感じます。自分がやりたいことがはっきりしたことで生きられるのだと。


 マックスは、ベラの全てを受け入れてくれる人だと感じました。

 

 ゴッドは、なぜ、あんな容姿なのか、怖さが漂っていましたが、父親が医師であり、父の実験台になっていたからであり、自分の身体を犠牲にして、実験を行っていたからだったのか。自分の喜びは邪魔なもの、父からの教え、慈愛を守って生き抜いていたのです。


ところどころ出てくる動物をみると、なぜあんな実験をしたのか意味がわからなかったし、ラストがホラー感あり、道徳的に考えると、えっと思ってしまいますが、彼の方も恐怖がなくなったのであれば、すべてハッピーエンドと、観て良かったなと思わせてくれました。

 


 人間って、こうやって成長していくんだなって思える作品で、人との出会い、体験で、知性が磨かれ、人生が変わることを改めて感じます。哀れとは、身動きの取れなくなった人のことを指しているのかな?と思いました。

 死であったり、不自由であったり、拘束であったり、また、支配したがる人であり、支配されている人だったり。人は哀れになりやすいものかもしれませんね。

 自分を解放させることが生きていること。哀れではない、喜びなんでしょうね。