弱者に対して国がどういう態度を取るかで文明度を測ることができる。

高市早苗の有名なこの発言。

さもしいですね。


これは人間にも言えることで、弱者に対する態度にこそ人となりが現れると思います。


いくら美辞麗句を重ねても、綺麗に服を着飾り、化粧しても、そんなもの全部虚飾なんです。


1ヶ月働いても手取り15万円というひとがザラにいる日本において、それでも貧しい国民にさもしいという輩がいる。


インバウンドに依存する国である。


中国人に舐められたくないという日本人をチラホラ見聞きする。


日本は世界に誇ることができる美しい国だというのだ。


だが、二千円の大衆演劇を高いからと観劇をやめるお年寄りが続出しているのが我が国の現状である。


まあ、ブログで大衆演劇をネタに書けるくらい観たい時にいつでも行けるようなひとは例え年金暮らしだったり、思いのほかさほど稼いでないとしても、まだまだ恵まれているのかも知れません。

高市早苗はよくやってるように見えるのでしょう。テレビで連日そのように報道されてますから。


でも、舞台裏は観客からは全く見えてないんですよね。舞台袖では何言ってるのかまでは知る由がないのです。


かつての新宿歌舞伎町にはコマ劇場があり、キャバレーなどもあった。

現在、インバウンド向けに建てられた歌舞伎町タワーがある。


一時期、ジェンダーレストイレで話題になったが、いまでは閑古鳥が鳴いている。


そして、街からは賑わい、活気が消えた。


通りすがりの外国人やトー横キッズと呼ばれる立ちんぼが徘徊する程度。


日本からは何もなくなりつつある。繁栄も栄光も豊かさも。


子ガチャに期待する親。

息子は障がい者。

試験管ベイビー。

そもそも親ガチャが外れた子どもが問題になっているのに、子どもにそこまで期待できるものなのか。


社会をあてにするなという。


そんな国をなぜ愛さなければならないのか。


毒親でも愛しなさいというようなものではなかろうか?

そんな理不尽を強いているのが今の日本社会ではなかろうか。


毒親みたいな国だろうと国民は愛さなければならないのか。そんな虫のいい話、厚かましい話あるだろうか?




日本会議に対する最大の違和感は、

 国家を語りながら、人間を完全に切り捨てていることだ。


彼らの言葉には

生活も、人生も、犠牲も、現実も出てこない。

あるのは「国家」「誇り」「伝統」という抽象語だけ。


調べれば分かる。

日本会議の主張は、実質この三点に尽きる。


① 「戦後日本」を否定したい

彼らが敵視しているのは、


・戦後民主主義

・憲法(特に9条)

・個人の尊厳や人権という発想


これらを

「敗戦の産物」「押し付けられた価値観」と切り捨て、

戦前の国家観を「本来の日本」と呼び直す。


だから憲法改正は目的ではない。

 国家が個人の上に立つ社会を取り戻すための手段にすぎない。


ここには一貫した思想がある。

個人は守る対象ではなく、国家の部品だという考えだ。


② 「議論」を潰し、「空気」で支配したい


彼らは政策では勝負しない。

代わりに使うのは、


・教育

・道徳

・家族

・愛国心

反論すると

「人でなし」に見えるテーマばかり。


こうして、


・反対=非国民

・慎重論=臆病者

・現実論=敵の味方


という空気を作る。


これは説得ではない。

 議論を成立させないための感情操作だ。


③ 責任からは常に逃げる


いちばん卑怯なのはここ。


・戦争になっても自分は戦わない

・経済が壊れても責任は取らない

・若者が死ねば「尊い犠牲」と美化する


つまり、

 煽るだけ煽って、死ぬのも壊れるのも他人任せ。


「勝ってやり直せる」

「覚悟があれば大丈夫」


これは勇気ではない。

 現実から目を背けた幻想だ。


はっきり言う。


こういう人たちが

政権の中枢に入り込んでいること自体が、

 日本が衰退していく最大の原因だ。


国家を語りながら、

国民の人生に一切責任を持たない。


それは保守でも愛国でもない。

 ただの無責任な思想運動だ。