大衆演劇がオワコン化したのはマンネリズムの極みだからです。大衆演劇のコモディティ化に他ならない。


どこの劇団も演目はほぼ同じで変わり映えしない、踊る曲もほぼ同じ。いずれ飽きるのは火を見るよりも明らかだ。


それが伝統芸能ならば受け入れられるかも知れない。だが、大衆演劇でコモディティ化は厳しいと思われる。


大衆演劇のファンとは例え同じ演目も何度も何度も繰り返し上演しようと通う人たちである。一般的にはそれを物好きと評される。大衆演劇とはひと握りのマニアという名の物好き、スキモノによって支えられているといっても過言ではない。


そもそも毎日日替わりで公演していたら練習や稽古する時間もままならない。新しいことをやろうとしても時間がないのでどうしても枯渇してしまう。業態からして積んでいるのだ。


3ヶ月やったら3ヶ月休むくらいしないとコモディティ化は解消しないかも知れない。


農業でさえ休耕しなければ土地は痩せてしまうのだ。休みなし、休みの日もゲスト出演とかしているようでは新しいことをやるにしてもマイナーチェンジになってしまうのは自明の理だ。


大衆演劇と24時間営業の健康ランドは似ていて、いずれは老朽化により閉館を余儀なくされる。


健康ランドが建て替えられることは稀である。解体して建て直すには莫大な費用がかかる。自転車操業でギリギリの運営をしている施設にそのような内部留保などあるはずもないし、同じ場所で建て替えるくらいならば別の場所で新規開業した方が良さそうである。


健康ランドの寿命は20年から30年と呼ばれている。バブル期に建てられた大型施設がここ最近立て続けに閉館しているのもそういった理由だ。


大衆演劇を導入しているような健康ランドは大衆演劇という藁を掴んでいる時点で経営的にも積んでるわけだから、いつ潰れてもおかしくない状態だったりもする。


大衆演劇は後継者がいる限りは劇団として続くが、それでも新陳代謝はあるのだ。気がついたらいなくなっているのはありがちである。役者がモチベーションを維持できるのかという懸念もある。


役者と乞食は3日やったらやめられないとはいうけど、さすがに24時間365日、寝ても覚めても役者という生活はキツいのではなかろうか。


観る側でさえ飽きるのであれば、やってる側はなおさら飽きているのではなかろうか。


かつて暴走族というのがいた。爆音で爆走していく暴走族は迷惑でうるさいだけであったが、一番うるさい状況にいたのは当の暴走族自身ではなかろうか。騒音装置の上にずっといるわけだから。暴走族の職業病、それは難聴だと思われる。耳も遠くなり、声も小さくなる。加害と被害は紙一重なのだ。


社会から煙たがられ、無視されてる存在であるが故に自己主張として悪目立ちしようとする。それが逆効果になっている。やぶ蛇だったりもする。


ヘビースモーカーの高市早苗。

大衆演劇のコモディティ化というが、いくら自己主張したとしてもそもそも興味のないひとには刺さらないだろうし、刺さるはずがない。なので、宣伝したところで煙たがられるのが関の山、むしろ逆効果のような気がする。


一般的にスーパー銭湯に行ったら風呂上がりになにをしたいか。ゴロゴロしたいか、パソコン片手に溜まっている煮詰まった仕事を片付けたいのだ。大衆演劇を観たいという物好きなんてほぼいない。大衆演劇やってますよ、やってるやってるアピールしたところでおそらく歓迎されないだろう。


大衆演劇ブームとはなにか。そもそもブームとは関係なく大衆演劇を観に行く人は一定数いるのだ。そして、大衆演劇を認知しているけど、コモディティ化に飽き飽きして大衆演劇から遠ざかっている層というのも一定数いる。


大衆演劇に興味ないひとに対して大衆演劇やってるぜ、カモーンなどとアピールしたところで誰も観にこない。


例えるならば創価学会員みたいなものである。熱心な信者ならば黙っていても公明党に投票する。公明党の党勢が落ちているのは学会員の高齢化によるものだと言われている。いまさら勧誘したところで学会員は劇的に増えない。F票の上積みなど期待できない。ゆえに公明党は積んでいるのだ。


公明党に投票カモーンなんてアピールしたとしても公明党、創価学会というだけで生理的に無理と思われるのが関の山ではないか。


逆に学会員にとってはむしろその方が好都合なのではないか。社会から阻害されれば阻害されるほど脱会しにくくなる。新興宗教あるあるである。


大衆演劇ブームとは外側にいるひとたちを内側に引き込むことではない。内側の温度差を温めることに他ならない。つまり、年に数回くらいしか観に来ないようなひとたちを週一くらい観に来させるように仕向けることができるか否かにかかってる。


現状では大衆演劇なんてどうせ毎度おなじみ、いつも毎回同じようなことをやってるだけだし、いっても変わり映えしないし、別に行きたいとも思わない。物価高だし、余裕もないし、そのお金があれば新しくできたサウナに行った方がいい。スマホでいくらでも映画見放題だし、Wi-Fiのあるスーパー銭湯にいくわ。それが大衆演劇ライトユーザーの本音ではなかろうか。


「どうせ暇なんでしょ」というカムイのセリフは的外れなのだ。暇ならば見にこい、観にきやがれというようなカムイの戯れは暴走族のぶんぶんぶぶぶんみたいなもので、寒いだけ、やかましいだけである。そんなおもんないことを言うくらいならばなんかひとつでも客を笑わせるようなことでも言えという話ではないか。


暇ならば大衆演劇を観に来いといわれて刺さるようなバカはいない。バカだったら言われなくても勝手に来ている。何も考えずに高市早苗を支持したり、公明党を支持する信者みたいなものである。


信者ならば暇だとか忙しいとか関係ないのだ。暇ならば見にこいというカムイの訴えは笛吹けども踊らない大衆演劇界隈に対する悲痛の訴えに他ならない。


若い頃の高市早苗。まさか彼女が日本を支配するとは。高度経済成長期真っ只中の中小企業の経営者のオヤジが聞いたら腰を抜かすと思われる。

大衆演劇ブームさえおきれば、冷めたひとたちも熱狂するのだ。大衆演劇の集客は劇的に改善するだろう。


ただし、ブームとは冷えた内側を温めるカイロみたいなものであって、あくまでも血行改善程度のものではないか。温泉は万病に効くと言われるとさすがに眉唾物である。大衆演劇ブームが韓流ブームほど席捲することは多分あり得ない。


新宿歌舞伎町劇場は大衆演劇のコモディティ化に対してLEDを使った最新のステージで打開しようと試みた。かつて、回り舞台、せりあげなど舞台装置によって歌舞伎ブームを起こしたように。スーパー歌舞伎みたいなものである。


それでも歌舞伎町劇場が全く鳴かず飛ばず、刺さらなかったのは、美山や若丸や恋川といった大衆演劇のトップ劇団が無視したからに他ならない。人気劇団はたつみと大空くらいしか乗らなかった。大衆演劇界隈が一枚岩になれなかったからブームを作り損ねた。篠原の新風公演も大成功とまでは言えないからね。同床異夢というやつだ。


例えるならば中道改革連合みたいなものである。中道改革連合で公明党と立憲民主党が合体すれば高市早苗を倒せるぞと思い込んだら、御覧の有り様。


オヤジ2人が組んだところで有権者に刺さるわけがないし、仮に立憲民主党の蓮舫を党首にして公明党側の代表として井上真央か石原さとみか久本雅美を担ぎ上げたとしても敗北は免れないと思われる。そもそも、公明党と立憲民主党のコラボとか悪魔合体みたいなものだ。女神転生じゃないんだから。メガテンである。


一枚岩ではない究極の野合。それでは自民党は倒せない。付け焼き刃にも程があるからね。


結果的に新宿歌舞伎町劇場は付け焼き刃だった。そもそもバックヤードがあんな場所にあってなにが劇場なのか。はじめから大衆演劇やる気ないだろうと言われてもおかしくはない。やる気があるならばバックヤードは同じ建物内に納めるだろう。


歌舞伎町におねりにいこうとも大衆演劇知らないひとがそれを見たとしても単なるノイズに過ぎない。なんのアピールにもならないのだ。


中道改革連合みたいなものである。選挙期間が短期間で新党が浸透しなかったというのは言い訳であり、そもそもミスマッチだったのではないか。皮肉にも無党派層の受け皿になったのは中身は空っぽなチームみらいというのも皮肉な話である。ひとは中身など期待してない。見映えの良さなのである。それが今の日本の現状なのだ。


大衆演劇のコモディティ化はどうにもならない。新風も吹かないだろうし、神風も吹かない。まさに風前の灯である。


かといって大衆演劇を日本文化として認知され得るのか。それも難しいと思われる。伝統芸能の枠組みではなくてサブカルだからね。サブカルの中でもニッチな部類だし、路地裏、裏町にひっそり佇むような存在だった。


仮にスターが現れたとしてももっと眩しいスポットライトを求めて映画やテレビの世界に行ってしまいがちである。梅沢富美男も早乙女太一も消えた。


まあ、早乙女太一も知る人ぞ知る存在であって、そこまで認知されてるわけでもないだろうけど。刺さるひとにしか刺さらない存在である。


今井宏と聞いて刺さりますか?刺さる人は受講生くらいでしょ?今井宏は林修ほどメジャーではない。マイナーでもないけど、ニッチな存在である。


里美たかしを知ってる伊藤賀一は何者なのかという話だったりする。


予備校講師の政治家転身で成功例は未だないよな。牧野剛も金ピカ先生も落選した。吉野敬介も出馬断念した。東進の世界史講師が出馬したらしいけど、落選したみたいだし。


次は都知事選にポレポレの西きょうじが出馬してみる?