高市早苗を大絶賛していた俳優の老害エピソードです。


「ひとりのお客を逃しましたね(笑)」

黒沢年雄氏が「(笑)」と記した言葉に、一抹の物哀しさを感じたのは、私だけだろうか。


82歳の俳優が、横浜のホテル内パン店の店員の対応に「とても嫌な気持ち」になったというエピソードをブログに綴った。

駐車券のスタンプを押し忘れた自分の代わりに、パン店でスタンプを押してほしいと頼んだが、購入金額が少ないため断られた。

それが、事の発端である。


まず問われるべきは、誰がミスを犯したのか、という一点だ。

駐車券のスタンプを押し忘れたのは、フィットネスクラブの会員である彼自身だ。

本来、その「忘却」という不手際の責任は彼が負うべきものであり、隣接するパン店には何の義務もない。

それにもかかわらず、自らのミスを棚に上げ、パン店が「融通を利かせない」ことを「嫌な気持ち」の原因としている。

自分の落ち度を他者に補填させようとし、それが叶わないと相手を攻撃する。

これは「客」としての正当な要求ではなく、責任転嫁による自己正当化に他ならない。


さらに、「何十回と購入してきた」「常連客だと知っているはず」という語りに、別の問題が浮かび上がる。

過去の購買実績を、ルールを逸脱するための「免罪符」としてかざしているのだ。

何十回と通いながら、その店のルールを知らない。

「常連」を盾にしながら、その最低限の作法を欠いている。

これは、「常連」という名の特権階級の幻想である。

商業における真の「常連」とは、その店の流儀やルールを誰よりも理解し、尊重する存在であるはずだ。

長年の愛顧を盾に、現場のスタッフに規定外の対応を強要することは、教育ではなく、職業的誠実さへの侵害である。

店員が守っているのは「杓子定規」な規則ではなく、すべての顧客に対して平等であるという「公平性」だ。


とりわけ見過ごせないのは、「そのスタッフに教育したい」という一文だ。

真の教育とは、相手の成長を願って行われる高潔な行為である。

しかし、ここで求められているのは教育ではなく、自らの不機嫌を解消するための屈服だ。

店員は店のルールを忠実に守っただけであり、接客業として極めて誠実な対応をしている。

それを「機転が利かない」と公の場で晒し者にする。

それは「教育」という名を借りた、支配欲の発露に過ぎない。


そして、「ひとりのお客を逃しましたね(笑)」という結びの言葉。

これは、自らの存在が、店にとってルールを曲げてでも維持すべきほど巨大であるという前提に基づいている。

しかし、一人の高圧的な客がいなくなることは、真面目に働くスタッフにとって、むしろ健全な環境の回復でしかない。

勝利宣言のつもりのその笑いが、実際には自らの値打ちを自ら貶めていることに、彼は気づいていない。


自らが主役であると信じて疑わない舞台の上で、台詞を忘れた俳優が、袖から声をかけなかった裏方を罵倒している。

だが、観客が目にしているのは、裏方の不手際ではない。

暗い舞台の袖で、自分のミスを認められずに立ち尽くす、その寂しい残像だけである。​​​​​​​​​​​​​​​​


まるで大衆演劇界隈の勘違いも甚だしい常連客みたいやないかい。


自分の不機嫌を解消するためにブログを書きがちなのは大衆演劇界隈あるあるですよね。


大衆演劇「愛」という名を借りた、支配欲の発露に過ぎない。


歳をとっても謙虚でありたいものですね。


ところでこの人、なんで有名なの?


ダウンタウンDXなど、バラエティー番組のひな壇タレントくらいのイメージでしかないんですけど。