老害おじさんの取説。
大衆演劇界隈は不思議なところで、役者はパリピか反社っぽいひとが多い気がするのに、観客のおじさんはパシリみたいな感じが多い気がする。たぶん。
中には反社っぽいひとも見かけるけど、大体は役者の知り合いだったりするので別枠。
大衆演劇界隈においておじさんはマイノリティなのでモブである。
おばさんファンに比べると生態が謎すぎる。何を目的に生きているのか。一体何が楽しいのか。
人それぞれなのでなんとも言えないが、ただひとつ言えること、彼らはクソの役にも立ってない。
役者はパリピだろうとヤリラフィーだろうと反社だろうと、舞台に立てば少しくらいは役には立ってるはずだ。
カムイからたかしまで舞台に立てば一応役者である。たぶん。
それに対して観客はクソの役にも立ってない。まあ、別に誰かの役に立ちたくて芝居を観に来てるわけではないだろうけど。そんなバカはいないはずである。たぶん。
まるで高木ブーだといえばブーに失礼だ。ブーにはウクレレがある。雷様がある。
観客には何もない。ブログを書いてると言ってもそんなの関係ない。ブログが一体なんの役に立ってるというのか。自己満足である。たぶん。
役者や劇場の役には立ってるだろうというのであれば、それは勘違いというものだよ。あんたがひとりくらい来なくても大衆演劇は回るだろう。ぺえぺえがひとりドロンしても大衆演劇は回るのだ。
さらにいうと座長がひとりドロンしたとしても大衆演劇が終わるということはないのだ。座長でさえ吹けば飛ぶほど軽いというのに、たかが観客ひとりに一体何ができるというのか。
ブログなんてものは風の前の塵に同じである。
劇場ひとつ無くなったところで何事もなかったかのように回る世界だ。大衆演劇とは実に切ない世界ではないか。
育ちが悪ければいくらいい素材でも台無しになるという話をしようか。
大衆演劇界隈だと子どもがスライドでそのまま役者になることもあるが、中には役者にはならない子もいる。
大衆演劇の役者はそこまでキラキラした世界ではない。親も薦めないような気がする。政治家みたいに利権があるわけでもないし、継ぐメリットはないのだ。能力があるならば別の道に進んだ方がいいと考えるのではないか。
それでも敢えて茨の道に進むこともある。
ただ客席から腕組みしながら舞台を観ているだけのおじさんとは雲泥の差である。
子どもの頃はキラキラしていて、ジャニーズのオーディションを受けたこともあるらしい。
いかにもジャニーが好きそうな感じではある。才能はあるかどうかはともかく、ジャニー喜多川にはウケそうな雰囲気だったりもする。
思春期に少年から大人に変わる。
壊れかけのラジオは大人の階段を登り、どこを踏み外したのか犯罪者に堕ちてしまうこともある。
そして、小太りになり、まるで大衆演劇の役者が化粧落としたようなビジュになってしまう。
そして、闇落ち。
かつてジャニーズと言われた金の卵は真っ逆さまに堕ちてしまった。
金の卵だと思っていたかつての少年はただのキンタマだった。キンタマ。金曜のタマたちへ。
このようにひとは環境によって左右される。
いい環境にあれば才能を伸ばして羽ばたくこともあるが、朱に交われば赤くなる。悪い環境にいれば、その才能も台無しにしてしまう。
翻って、大衆演劇界隈という環境はどうなのだろうか?
才能ある若者といってもあくまでも大衆演劇サイズである。
大衆演劇とは通過点ではあれども目的地にはなりにくい。大衆演劇が憧れの世界にはなりにくい。
ブログを書くとはどういうことなのか?
ブログが落書き程度であれば、あくまでも暇つぶしである。
どうせ暇なんでしょ?たぶん。
暇だから書いてるのだ。ブログを書くことが目的ではない。たぶん。
ブログを書く目的で大衆演劇を観るというバカはいるのだろうか?いないだろう。たぶん。
大衆演劇みたいなニッチなものを取り上げたところでバズる可能性は万にひとつもない。たぶん。
そもそも、ブログでバズるなんてことはもはやないだろう。炎上したとしてもボヤ程度だ。たぶん。
黒沢年男のブログが老害だと炎上したところでそこまで盛り上がることはない。そこまで影響力もないからね。
黒沢年男は黒澤明ではないし、黒沢かずこでもない。白沢でも大沢でも小沢でもないのだ。
大衆演劇は観劇も暇つぶしならば、ブログも暇つぶしであり、究極的にいえば、人生なんて所詮は暇つぶしなのではないか。
死ぬこと以外はかすり傷なんて誰かが言っていたが、死ぬこと以外は暇つぶしだとすればなんとなく合点がいくのではないか。
カミさんが死んだこと自体、ブログのネタとして消費するのであれば、それは浪費ではないか。
カミさんの死でさえ暇つぶしなのではないか。
どうせ暇なんでしょ。たぶん。
何を目的に生きているのか。
何のために生まれて
何のために生きるのか
何のためにイキるのか
別にヤリラフィーでもないのにね。たぶん。
単なる陰キャのモブおじさんなのにね。たぶん。
また、行きつけの劇場が潰れたことも暇つぶしなのではないか。
潰れた劇場のことをいつまでもブログで擦り続けたところで何も起こらない。アラジンの魔法のランプみたいに擦ってもなにも出てこない。
DJがレコードをスクラッチするような感覚でブログでシコシコ擦ってもなにも変わらない。
せめて周りを楽しませたいという気概も気骨すら一切感じられない。気づきもなければ、インテリジェンスもない。大衆演劇のたばこ踊りと同類か、下手するとそれ以下ではないか。
むしろ、ギャートルズと揶揄するおばさん連中以下かもしれない。ターミネーターに謝るべきではないか。
ごめんね、シュワちゃん。手話で謝っておきます。手話できないけど。シュワッチ。
大衆演劇とは澱みたいなものではないか。
劇場、役者、そして観客がそれぞれ織りなす、大衆演劇の澱(おり)
生ビール飲んだあとにグラスやジャッキに残るあとをイメージしてみればわかりやすいと思う。
もう、容器にはビールは残ってない。残るのは澱のみ。それが大衆演劇ではないか。
去る鳥、跡を濁さずという。
終わったあとに残るのは澱くらい。翌日には別の演目が上演され、翌月には別の劇団が上演される。
あいも変わらず似たような内容で、残るのはせいぜい澱のみ。
人生という長いようで短い期間。終わったあとには何も残らない。悪あがきしたところでせいぜい澱くらいではないか。
名前を残したり、後世に何かレガシーを残すことができるような人物など殆どいない。そんな人物に出逢えたならばまさに僥倖である。
高市早苗は日本という極東の島国の憲政史上初の女性総理ではあるが、彼女は爪痕を残せるとは思えないのだが。たぶん。
せいぜい澱くらいではないか。選挙前のリウマチとか含めて。
オリオリオリオー
ヤリヤリヤリヤー
懐かしい、バブルガムブラザーズ。
自己防衛おじさん、統一教会のバーター説。
大衆演劇界隈のブログは澱だろうか?
何を書いてもどうせ中身なんて何もないのだから、ウンボボだと思えばいいのではないか。
ブログも所詮は暇つぶし、ウンボボでしかない。
ウンボボとはどういう意味なのか。
代ゼミ富田のカミさんの寝言らしい。
意味なんてないのだ。所詮は暇つぶし、ウンボボなのだからね。目くじらを立てる必要もない。
目くじらとは何だ?目くじら?芽キャベツみたいなものなのか?
大衆演劇はウンボボでござんす。











