かつて大衆演劇は明るさに隠された暗さに裏打ちされたような独特の世界観があったような気がします。
大衆演劇とはそんなに明るいものではなく、昭和元禄と呼ばれた空前絶後の繁栄の裏側、路地裏のような世界観だった。それゆえに、股旅、渡世、ヤクザなど日陰者がヒーローとして描かれていた。
美学とか美意識と呼べるほど高尚なものではないかもしれないが、モブにはモブの意地というか、決して日の当たる場所には立てないような男による、男のための、男の物語。まさに、石原裕次郎の太陽とは真逆の日陰だったのではなかろうか。
高度経済成長が終わり、大衆演劇も消えてしまった。労働者もそれなりに真面目にコツコツやればそれなりに稼げるようになり、安酒ではなく、水割り程度ならフツーに飲めるようになったというのが大きいのではなかろうか。
大衆演劇からダメオヤジが消えた。ダメオヤジの挽歌でなくなった大衆演劇は存在意義を失った。共通の物語を喪失してしまったのだ。
ダメオヤジたちは安いチェーン店系の居酒屋や日高屋、パチンコ、スロットなどのギャンブル、そしてスマホのゲームやマッチングアプリにシフトしてしまった。大衆演劇には見向きもしなくなった。スマホがあれば動画も観れるからね。わざわざめんどくさい大衆演劇界隈になんざ足を踏み入れない。ダメオヤジ、危うきに近寄らずである。
東京の大衆演劇は良くも悪くもそんなダメオヤジに寄り添っていた。大衆酒場のような存在だったのではなかろうか。昭和の町工場のオヤジなどが夜な夜な観るものだった。ダメオヤジと役者がやり合うことも日常茶飯事だった。
昭和のダメオヤジの穴を埋めたのは下世話なBBAだった。大衆演劇の客層は男女逆転、下町のBBAの社交場になった。大阪が元気で東京が下火になったのも大阪と東京のBBAの違いによるものではなかろうか。
大阪のBBAはドメスティックで、東京のBBAはドラスティックに変わった。
イタメシにトレンディーにDCブランド、円高になれば海外で恥を撒き散らしたのはシラガネーゼなどと呼ばれた東京のプチブル層である。BBAはそのまま韓流ブームに乗っかり、ヨン様や羽生結弦といった塩顔男子や草食男子、BLに夢中になっていった。そしてタワマンでパーリーピーポーな港区女子に至る。
大衆演劇など東京のBBAにとっては眼中になかった。
大阪はバブル期だろうと趣味の悪い豹柄のシャツを着たり、ゴーイングマイウェイを貫いた。なんだかんだで下町のBBAが元気だった。バブル崩壊後も大阪は変わり映えしなかったというのも大衆演劇がスキマ産業として残存した理由だろう。
あと、関西には人気役者が多かった。東京は梅沢富美男のブームが終わるとそのあとが続かなかった。チビ玉兄弟も消えるのが早かった。その穴を埋めたのは西の人気役者だった。別に東京に期待しなくても、西から来てくれるので全く困らなかった。客まで連れてくるので一石二鳥だった。
それがそもそもの間違いだったような気がするけどね。
例えるならば、いまの政治である。右傾化した巨大与党はもはや舵取りできなくなっている。かつては左右の絶妙な党内バランスにより極端に偏ることなく運営できていた自民党からリベラルが消え、調整役も居なくなってしまった。いまの政権、誰が舵取りできるというのか。
麻生太郎はキングメイカー気取りではあるが、大衆演劇で例えるならば橘菊太郎みたいなものである。目先の人気取りばかりで後継者を育てるつもりはない。今さえよければそれでいいのだ。さらにいうと、自分が存命中ハッピーならば後がどうなろうと知ったこっちゃないのだろう。ある意味、正直だと思う。
今どきのジジイのマインドはあとは知らんけど、である。戦争になろうと戦場にいくのは孫か子どもだし、あっしには関係のないことでござんす。ジジイマインドとは傍観者であり、無責任なのだ。
総座長といいながら、舞台は大ちゃん任せの橘菊太郎みたいなものである。
麻生太郎は口先だけで、高市早苗などに押し付けてる。要は自分の居場所さえ確保できればそれでいいのだろう。石破茂を嫌うのは自分の居場所を脅かされそうだったからだ。
日本会議や統一教会といったカルトに日本が蝕まれようと自分が安泰ならばそれでいい。それが麻生太郎であり、高市早苗界隈だと思われる。
国民のことなんて知ったこっちゃないのだ。
西の人気役者頼りという構造が固定化されると、東西の役者格差、劇団格差も顕著になる。東の役者は八州周りに終始する羽目になるのだ。茨城、栃木、埼玉、たまに新潟、福島、四日市程度で、変わり映えのない景色で一年間回っていた。
そして大衆演劇がいよいよオワコン化してきた。小岩湯宴ランドの閉園により、篠原の八州周りコースモデルは崩壊したのだ。小岩から始まった崩壊ドミノにより、公演先がなくなりつつある。
大衆演劇が西に傾いた結果、大衆演劇という船全体が沈みそうになっている。
戦艦大和はかつて不沈船と呼ばれた。姉妹船である戦艦武蔵を沈没されるのに意外と苦戦したアメリカ軍は戦艦大和を沈めるために左側を中心に魚雷を撃ち込み、爆撃した。その戦術が功を奏して、戦艦大和は2時間足らずで沈めることができたらしい。
アメリカは過去の失敗から学び、次に活かすことができた。
日本は過去の成功体験に拘泥し、過信した結果、国家存亡の危機に陥った。
日本人は過去の失敗から学ばないというメンタリティがあるのかも知れない。アップデートが苦手なのだと思う。
大衆演劇の大阪偏重はやはり歪なのではないか。カールおじさんみたいなものである。
吉野敬介は今井宏のことをカールおじさんと呼んでいた。
カールおじさんに会いたければ関西まで行かないと会えない。東京まで来ない役者に会いたければ関西まで行かないといけないが、東京の大衆演劇ファンはそこまで熱量がないので、ひと握りの変態以外は遠征しない。
ときじろうはそんなひと握りの変態のひとりである。まあ、やつは一体何がしたいのか謎ではあるが。三吉を盛り上げたいのか、篠原をディスりたいのか。まあ、自分さえ良ければいいのだろう。どうでもいいけど。
大衆演劇のカールおじさん化。いずれ、大衆演劇は大阪まで行かないと観れなくなるのではないか。
篠原はもしも老朽化により浅草木馬館を閉館することになったらどうするのだろうか?
採算を考えたら浅草で建て替えたり、別の場所でやるよりも大阪に劇場を建てた方がいいのだろうけど、そもそもアウェイである。山根との調整も難航するだろうし、大阪に劇場建てたところで客の奪い合いになるだけだろうし。
かといって、いまのビジネスモデルのままだと先細りなのは目に見えている。
歌舞伎町劇場は三年持たなかった。歌舞伎町劇場は大衆演劇の常打ちをやめて、貸し劇場にするという。まさに三年目の浮気である。
バカ言ってんじゃないよ。
貸し劇場なんてリスクを負ってまでわざわざ東京までくるバカいるかよ。
アントニオ猪木でなくても一目瞭然である。
アントニオ猪木は戦う前に負けること考える奴はいるかよというスタンスであったが、大衆演劇の場合、戦う前から負けが決まっている。
公明党は中道改革連合というコウメイの罠によってしぶとく勝ち残ったが、その手は今回限りである。
たぶん、高市早苗が辞めたら自民党に秋波を送って、元鞘に戻る魂胆なのだろうけど。
アレを「大勝利」というのは流石に無理があると思うぞ、創価学会。
新宿歌舞伎町劇場は「歌舞伎町の女王」にはなれなかった。
かつて、「喝采」を浴びたであろう、大衆演劇のステージ。「夢は夜開く」大衆演劇であった。
それも昭和の話である。
今の歌舞伎町の女王はトー横である。そんなトー横もインバウンドに占領されている。
トー横キッズがパパ活と称してパンパンになっているのは新しい戦前なのか、戦後なのか。
政治もきな臭くなってきた。高市早苗は胡散臭いし。
世界がアメリカとイスラエルによるイラン攻撃を報道している最中、NHKワールドはエビを映していた。
まさに、楽しいムーミン一家である。
この国は湾岸戦争の頃から本質的には変わってない。
悪いことに、あの水玉ネクタイの海部俊樹よりも能力が遥かに低い高市早苗が首相である。
日本人は現実を直視するべきである。
大衆演劇、どうすんだい?
日本もスーンダイである。





