戦前の東京市の地図です。
浅草区を拡大してみました。
宮戸座は駒形劇場と並んで小芝居が上演されていた劇場です。
宮戸座は関東大震災で被災するまでは歌舞伎座と並んで格式の高い劇場だったそうです。
国際劇場は1937年完成です。まだこの地図には載ってませんね。現在の浅草ビューホテルになります。
凌雲閣がまだありますね。この近くには元祖ラーメン屋と呼ばれる来々軒があったそうです。
浅草寺の境内にある水族館、昆虫館が現在の浅草木馬館です。
木馬館の木馬の由来は元々、水族館と昆虫館に置かれていた木馬なんです。
大勝館は現在のドン・キホーテです。かつてここには大勝館という名前の映画館がありました。
映画館の閉館後、長らく放置されてましたが、大衆演劇の劇場として短い間、復活したことがございます。
今では浅草木馬館の常連でもある九州方面の劇団の多くが大勝館に乗ってました。
特に、橘大五郎は大勝館のオーナーに可愛がられてました。その縁があって、北野武主演の座頭市に出ることができたとか。
早乙女太一も出ていたっけ?早乙女太一、ごめんなさい、あまりよく知らない。
浅草は戦前から東京随一の歓楽街として栄えて、映画館から劇場までたくさんありました。
大衆演劇の歴史は昭和53年に浅草木馬館がオープンしてからなので、だいたい40年ちょいです。
その年にブレイクしたのが梅沢富美男ですね。
山下達郎のクリスマスイブもこの頃の曲です。ここまで来ると、もはや、演歌ですね。
大衆演劇は一時期盛り返しましたが、慢心したのか後継者が育たなかった。結局、九州や関西の役者頼みの興行になりました。それがのちのちまで尾を引くことになります。現在では東京の大衆演劇はほぼ死に体です。
九州や関西の役者は盛るのが上手いんです。大したことないものを大きくみせることができます。東京や関東の役者はそこまで器用ではなかったりします。
10年、20年先を考えるとなかなか厳しいと思います。
もしも、大阪でも大衆演劇がオワコン化すれば、ドミノのようにバタバタ倒れると思います。
大衆演劇は芝居にせよ舞踊にせよ、パターン化できると思います。何パターンかの型を覚えれば、演劇の素人でも比較的短期間でマスターできると思います。
にも関わらず、何年経っても微妙な役者がちらほらいたりするのは、センスがないのかも知れません。
家系ラーメンみたいに量産化できるにも関わらず、それができてないのはどこかで馴れ合いになっているのではないでしょうか。
まあ、受験勉強に似てると思います。同じように勉強やってもどうしても差が出てくるじゃないですか。
環境が環境だけにモチベもさほど高くないような気がしますし。ギャラがさほど変わらなければ、そりゃ手を抜くだろうし。リターンが少ないから全体のレベルも底上げできない。
あと、お客さんの質もお世辞にも高いとは言えないからね。役者は客が育てるのです。客がそれなりならば役者もなあなあになると思います。
そもそも客が芝居の内容を全く理解してなかったりしますからね。どうにもなりません。
しょうもない客の話とかプロレスネタとか政治とかカミさんの介護とか、そんなの別にどうでもいいから、少しは芝居の話でもブログに書いたらどうなんだい?そういうところだと思います。
大衆は大衆に見合ったリーダーしか出て来ない。
政治家も役者も似てると思います。
【おまけ】
安倍さんに教養がないことは、実は身近な人々のあいだでは“公然の秘密”だった。
だからこそ、彼の演説はいつも情緒とイメージ先行。論理も歴史的整合性も、後回しだった。
そしてもっと深刻なのは、それが「親しみやすさ」や「庶民感覚」として消費され、むしろ“知性のなさ”が政治的な魅力にすり替えられていったことだ。
こうしたリーダーの周りには、決まって“反知性”を売りにする“識者”が集まる。
まともな学術の世界では相手にされないような“専門家”たちが、ブレーンとして大きな顔をしはじめる。
政治が軽薄になればなるほど、言葉も知見も軽くなる。
だが、教養なき者が国の舵を握ることほど、国家にとって危ういことはない。
なぜなら、トップの“知の軽さ”は、そのまま社会全体の知の基準を引き下げるからだ。
リーダーが論理より印象を操り、歴史を歪め、レッテルで相手を封じていれば、やがて国民も「それでいい」と思い始める。
言葉の軽さ、思考の粗雑さ、無知の開き直り——
それが“この国の普通”になってしまう。
安倍政権で起きたのは、まさにこの知的劣化の連鎖だった。
“無教養な支配”が、“無知な服従”を育ててしまった。
その結果が、今の社会の空気だ。
教養とは、単なる知識量ではない。
それは、言葉の重みを知ること。歴史への敬意を持つこと。
そして、他者への想像力を決して手放さないことだ。
それを欠いた人間が、長きにわたり権力の座にいた——
その代償を、いま私たちは静かに、しかし確実に、支払わされているのではないだろうか。
私たちは、こういうリーダーを二度と選んではならない。

