それはたとえば、どんなに無傷に見える人にも、本当は飛んで会いに行きたくなる人がいて、もう二度と会えない人がいて、死にたい夜があるということ。なにかを、あえて言わないようにしているということ。


あるいは、書かれたことより、書かれなかったことの方が多いということ。撮られたものより、撮られなかったものの方が常に多いということ。


友達の写真をSNSにアップし続ける人に本当に足りないのは、友達だと思う。お金のことばかり話す人に足りていないのは貯金であるように。恋人のことばかり話す人に本当に足りないのは愛されているという確信だろう。幸福な人が、自分は幸福だと言いふらす必要はない。一見優しい人は、本当は冷たい人だったりする。


スマホのメモに残されていた言葉。


自分の言葉なのか、誰かの言葉なのか。自分の文体ではないような気がする。どことなく文学的な感じがするので、誰かがどこかで書いた言葉をメモに残しておいたのかも知れない。


書かれたことよりも書かれなかったことの方が多いというのは念頭においた方がいい。言葉尻だけ捉えて事実無根だとか誹謗中傷だというのは即物的というもの。その言葉の背景には書き手の人生観だったり、その対象への定点観測というものも含まれていると思う。


一見優しい人は、本当は冷たい人。それはあると思う。優しいフリをしている人は沢山いるから。人はそれを偽善者だとか言うけれども、偽善者がいなくなればこの世は殺伐とするような気がする。


テレビもネットも偽善者ばっかり、嘘つきだらけだ。もし、テレビやネットが真実しかなくなれば、おそらくとりつく島がなくなる。真実とは息苦しさを伴うからね。


ヒューマニズムと書いて嘘つきと読んでもいいと思う。ヒューマニズムとは優しい嘘だと思う。ひとは剥き出しの真実だけでは生きられない。嘘も偽善もペテンも必要なのだ。


それなのになぜ嘘や偽善、そして矛盾をひとは憎むのか。


結局ひとは自分の都合しか考えてないからだ。自分が嘘をついたり、ひとをぺてんにかけることはよくあるのに、自分が嘘をつかれたり、ぺてんにかけられると腹が立つのだ。


自分もそういうところあるのだから、相手もそうだろうとは思わない。多様性を認めろというやつに限って、相手の多様性は認めない。


多様性とはある種の宗教だと思う。誰でもウェルカムにみえて、実は排他的だ。自分の内側か外側か。自分の外側にあるものは受け入れない。多様性という方便を用いて他者を選別しているのだ。大衆はそんなに物分かりが良くはない。間に受けてはいけない。