今年も例年とは違うし、きっと来年も例年とは違う1年になるだろね。
同じ年なんてないし同じ時間も同じ空間も存在しないからね。
ところで、諸行無常という言葉がある。
調べてみると、世の中のすべての現象は常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。らしい。
たとえば、宇宙の銀河は常に地球から遠ざかっている。
また、人間の体の細胞も新陳代謝によって毎日入れ替わっている。
つまり、同じ物は存在しないし、同じ事は2度と起こらない、と言うことができる。
しかしたとえば、同じ質量の原子は存在する。
また、同じ実験ができなかったら自然科学が成り立たなくなってしまう。
つまり、同じ物は存在するし、同じ事を2度以上起こすことはできる、と言うことができる。
この2つの現象を正しくとらえるためには、物事をシンプルに考えすぎた結果、重要な事実が抜け落ちる、という危険性を常に意識する必要がある。
たとえば、昨日、机の上に置いたイチゴフラペチーノは、昨日と同じ机の上に存在しているし、昨日よりも劣化という変化を起こしている。
たとえば、コロナウィルスによって、マスクの着用や、学校の授業や仕事のオンライン化、電子マネーの普及など、人間の社会生活全体が変化した。
しかしたとえば、人間の生理現象や生命本能まで変化したわけではない。
だから、りのんちゃんは今日も肉を食べるし、明日も肉を食べる。
つまり、世界の構造は複雑であるから、より客観的に、より謙虚に観察していくことでしか、世界を正しくとらえることはできない。
すべての物事は変化する、という考え方の反動として、人間は変わらないと思えるものや存在、絶対的なものにすがりついてしまうことが多い。
たとえば、依存症といわれるものの多くは、このような人間の心理が働いた結果だと言える。
ここで、この世界に絶対が存在するかを議論することは徒労に終わるだろう。
なぜなら、絶対という言葉は、人間がつくった概念であるが、これに対して、この世界に存在するかどうかは、あくまでも自然界にある物事であるから、客観的に謙虚に科学の目を通して観察しなければならないのである。
依存すること自体が悪いことではない。
極論すれば、すべての人は何かに依存している。
その依存する物事によって、人生の大切な時間が失われていないか、ということが問題とされるべきである。
時間は常に変化し続ける。
現在という時点は、次の瞬間、過去になり止まることがない。
だから、青春の思い出は、思い出すと切なくなる。
人間が生物である以上、時間とともに劣化していくことは避けられず、若い時と同じパフォーマンスを発揮することはできない。
多くの国が法律や制度によって、若い人を守ろうとしているのは、先人たちの知恵の結晶である。
また、辛かったり悲しかったりした思い出は、脳の中で整理されて教訓になったり、トラウマになったりする。
過去のすべての出来事によって、今のその人間が形成されていると言っても、それは単に事実を言っているだけで、望まなかったことや、拒否できなかったことまで受け入れるべき理由にはならない。
世界の物事の多くが変化してるのだから、自分も変化していかないといけない。
考え方を変えることは悪いことではなく、変化する現実と誠実に向き合っている証拠である。
失敗を恐れて立ち止まっていたらいたら、科学の進歩はなかっただろう。
自分なりに考えつくしたのなら、時には思いに任せて、言い切ってしまうことも必要である。
間違っていたら、後で訂正すればいい。
しかし、変えていく中で、何を守り続けるか、ということも常に考えておかなければならない。
それを守り続けることが、依存状態なのか、プライドなのか、自分の存在を肯定する根拠なのか、理論を組み立てるための原理原則なのか、についてはより慎重に判断しなければならない。
誠実に世界と対峙した場合、ほとんどの物事は、おおよその確率でしか言い表すことができない。
夢に向かって努力し続ければ、必ず夢を叶えることができる、ということを証明することは不可能である。
夢を叶えることができた人も、叶えられなかった人も、明確な理由があることもあれば、運が悪かったとしか言いようがない場合もある。
なんであんな奴が幸せになるのかと思える場合もあれば、生まれてきたこと事態が不幸だと思える場合もある。
科学的根拠を必要としたいが、時間は止まらずに進んでいくので、どこかで妥協して決断しなければならない。
すべての人間が夢を叶えられるわけではない。
むしろ、現実社会は、夢を叶えられなかった人が圧倒的多数を占めている。
もちろん、夢を叶えられなかった、諦めたすべての人間が、不幸な人生を送るわけではない。
何が正しくて、何が間違っているか、そのすべてを科学的根拠を持って答えるまでには、まだ科学の進歩は追いついていない。
しかし、科学の進歩を待っていては、1歩も前に進むことができない。
だからといって、安易に不安商法や、信仰に頼ることは、科学を進歩させてきた先人たちの偉業を否定する行為として、恥ずべき行為である。
よって、最終的な決断は、今までの自分の経験則が鍵を握る。
すなわち、現時点でわかっている科学的根拠を頼りにして、確率論によってはじき出された選択肢の中から、自分の経験則によって最終的な決断をすることが求められる。
自分の経験則による判断が適正であるかどうかは、それまでの小さな成功と失敗の積み重ねによって成長し、より適正な判断ができるようになる。
したがって、私たちにできることは、目標を達成できる確率を1%でも上げるために、目標達成を推進すると考えられるものをひとつひとつ積み重ね、障害となると考えられるものをひとつひとつ取り除いていくことである。
来年も真面目に生きよう。
