もはや説明の必要もないだろう
ついにこの日がやって来てしまった。
そうだ、ついに我がドンツーの輝かしき思い出をくれた稲口会館が今日閉店するのだ。
思えば年間150万超の大部分をくれたのだ。
それだけではない
4号機の射幸性が暴走しまくったあの頃どいつもこいつも「パチスロで出してパチンコでぼったくる」というクソ営業ばかりだった時代に
パチもスロも等価という涙が出そうなほど素晴らしい営業をしてくれたのだ。
それだけに車で1時間かけてまでほぼ毎日通いまくったものだ。
2007年初期に東京に行ってから行ける機会は激減していた。
しかし一度たりとも忘れたことはない。
今年に入って未だ勝ちはなく苦しいが今はそんなことはどうでもいい
そうだ、今あの店との最後の思い出をおろそかにしてはこの先一歩も進めない。
そんな気がしてならないからだ。
仕事が終わってメシの後、猛ダッシュで自転車を走らせて40分
到着した時は8時近かった。
あのネオン看板に明かりが灯るのも今夜が最後だ
もはや今となっては「ありがとう」という言葉しかでてこない。
でもできることなら最後に勝った思い出で終わりたい。
衝撃のニュースを知ってから2/20・2/23・2/26と3度来たもののいずれもダメダメだった。
回りが極悪ならばまだしも、普通にそこそこの回りはしてるのにヒキが悪いのだ。
特に20日と26日は当りすらゼロという体たらくだった。
閉店だというのにこの車の数。
そうだ、皆この店との別れを惜しんでいるのだ。
さて、そんな思い出の店での最終日。
やはりヒキの悪さが目立つイヤな展開。
そんなとき1つ偶然に見つけたものあった。
そうだシンフォギアツーの77バジョーンだ。
それが118回まで回っている。
そうだ、これなら最悪遊タイムで当りが狙えるぞ。
しかし、さすがにその前に当ってくれると思っていた。
しかし二度までも手紙ハズレ。
そしてついにカウントダウンが始まった。
もはやこのようなことは日常茶飯事であるあるだが、あと何回を意識すると急に回りが悪くなった。
ついに発動!
なんだかんだで、遊タイムGATははじめてだ。
それが最大獲得だった!
しかし事もあろうかたった1回で当りやがったのだ。
普通ならぶん殴ってるところだ。或いはエルボーをガンガン叩き込んでいる。
だが、今日はそんな気が起きない。
そしてイヤな予感を抱いたまま…
案の定だ…ハァ・・・
今の俺らしいと言えば俺らしいや。
普段ならこのまま打って終わる所だが、最後にカウンターで交換ぐらいはしたい。
23日は飲ませて終わっただけに。
そう思って交換することにした。
脱力したまま家路についた。
だが、どうにもやりきれない、そして後ろめたさがわが心を駆け巡った。
そうだ、あの店との思い出を中途半端なまま終わってはこの先一歩も進めない。
今日は最後をしっかり見届けるのだ。
家の近くまで来たにもかかわらず、元来た道を引き返した。
稲口よ、俺はお前の最後に立ち会うために
戻って来たぜ・・・
時間は10時近く閉店まで1時間を切った。
とはいえ財布の中はもう5千円しかない。
きれいなねえちゃんの秘宝伝も、恐らく設定1のせいで手ごたえがない。
それにやっぱり最後はパチンコで終わりたい。
最後に選んだのはパワフルだった。
しかし無情にも、手ごたえがまるでなくみるみる飲まれていく。
そして、いよいよ飲まれ切る寸前で「あついあつい!」が出た!
これは!当るぞぉ!!
そう確信したが、イヤな予感も。
そうだSANKYOとの相性の悪さは自分自身が良く分かっている。
そして、その予感はやはり当った(つまりハズレ)。
15分残してついに力尽きたのだ。
そうだ、15年半前の2006年6月20日。
思えばあのドンツーとの最期の思い出は苦いものだった。
当りこそ6度もあったがそのすべてがオール2だったのだ。
そして翌日には志村ワールドに変わっていた。
最期の思い出はいつもこんなものばかりだった気がする。
だが、最期はせめて見届けたい。
打てなくても最後の時間までは見届けて終わった。
店内を歩き回って思い出に浸りながら。
まさに時間が止まってくれという気持ちそのものだった。
だが、ついにその時間はやってきた。
稲口会館よ、本当にありがとう。
そして、さようなら…
いつの時代も別れとは悲しいものだ。
「あって当り前」と思っていただけにそれが姿を消す。そしてその時、やりきれない後悔の念に襲われる。
だが、思えば閉店を告知して最後の別れを惜しむ時間をくれるようになったのは、ある意味で不幸中の幸いと言えるかもしれない。
思えば2003年、可児市の青楽にも通っていたことがあったが、10月15日まで普通に営業していたのに、10月16日やってくるとなんと店は真っ暗。
店休日かと思ったら翌日も真っ暗で、何か様子がおかしいと思ったら、張り紙で閉店を発表していたのだ。
別れを惜しむもクソもなかったのだ。
そうだ、最後の営業日だった10月15日は普通にいつものように帰ってしまったが、知っていれば最期の最期まで見届けたはずなのだ。
もちろん青楽に限らず、あの頃は前告知など考えられない時代だった。告知してしまうと「今行っても回収される」という印象しか与えないからだ。
いずれにしても「あって当り前」と思って軽んじた時が別れの始まりなのかもしれない。