はい、というわけで、

今日のおはなしは、結構有名な「カナの婚礼」についてです。

聖書箇所で言うと、ヨハネによる福音書2章ですね。

 

その中でもわたしはこの文句

「それは、キリストがおこなった、最初の奇跡(しるし)だった」

 

この台詞、カッコイイですよねえ!

わかりますか?わからない?

そうか、分からないかぁ。

とにかく、映画の宣伝文句に使えそうな、いい台詞だと思うんですけど。

「奇跡」と書いて、「しるし」と読ませるなんて、最高じゃないですか!!

 

あ、あんまり同意が無さそうなので、本編に入りたいと思います。

でも、このお話はみなさんだいたいご存じだと思うので、

そんなに詳しくお話せず、ちゃっちゃと参りたいと思うんですが、

 

「カナの婚礼」です。

カナっていうのは地名です。今のレバノンあたりになるとかならないとか。

婚礼ってのは結婚式ですね。まあ、今回のお話しの場合は披露宴なんですが。

 

結婚式です。おめでとうございます!

誰が結婚したのかは、書いてありません。

でも、

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。

イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

ヨハネによる福音書2章

イエス・キリストのお母さん、つまりマリヤさんが出席しています。親類かなのかなのでしょうか。

マリアさんが出席しているので、その息子のイエスさまも出席しています。そのついでにキリストの弟子たちも披露宴に出席していた様子です。

弟子たちの数は12人なのでしょうか、それとももっとなのか、何人の弟子たちが出席したのか分かりませんが、とにかく出席したようすですね。

そのせいなのか、

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。 

ヨハネによる福音書2章3節

盛り上がっている宴会の席で、お酒が切れるという、最悪な事態がおこってしまったようです。

すると、

お母さんのマリアさんは、イエスに「ぶどう酒がありません」と言ったのです。

 

はて、なぜマリアさんは自分の息子にお酒を所望したのでしょう。

ひょっとしたら、キリスト・イエスは、お酒の専門家だったのでしょうか

いやいや、お酒を造る、酒造家でもありませんし、

お酒を売る、酒屋さんでもありません。

お父さんのヨセフさんが大工だったし、キリスト自身は30歳まで家のことを手伝っていたようですから、大工の仕事は出来たと思います。

だとしたら、なおさらお酒に関わる仕事をしていません。

それなのに、マリアさんはイエスさまに「ぶどう酒がありません」と言ってきたのです。

メシヤを使いっ走りにするつもりだったのでしょうか。

 

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。 

ヨハネによる福音書2章

お母さんのマリアさんは、「イエスさまの言うことはなんでもしてあげて下さい」と、披露宴の準備をしている人たちに言ったのです。

え、何でもですか?!!

 

当時は道路が今のように舗装されて居らず、どろどろになっているのが当たり前ですから、家に入る為には手や足や頭を水で清める必要があったのです。それでそこには大きな瓶が用意してあったのですが、

もう「宴もたけなわ」、今更来客もありませんし、瓶は必要ありません。

キリストは使いの人たちに、「その瓶に水を縁まで満たすように」と命じました。

先ほど申し上げた通り、いまさら来客はありませんから、水を用意する必要はありません。

しかも、いま必要とされているのは、ぶどう酒なのです。宴会の席なのにぶどう酒を切らしていることが問題なのです。

どこかにお酒を買いに行くようにお使いを頼まれるほうが分かりやすいでのすが、

そうでもありません。

 

  イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

ヨハネによる福音書2章8節

今汲んできた、瓶いっぱいの水を、杯(コップ)に入れて、宴会をとりまとめている人の所に持って行くように命じました。

しかし、あくまでの水ですし、必要なのはぶどう酒です。

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。 

ヨハネによる福音書2章9節

 

いきなり、「ぶどう酒になったその水」と書かれています。

いつのまに、ただの水がぶどう酒に化けたのでしょう??

 

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――

彼は、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

ヨハネによる福音書2章9~10節

 

宴会が「宴もたけなわ」になれば、みなさんへべれけになって、味なんておぼえていないもの。だから最初だけ美味しい良いお酒を出して、意識が飛んでる後の方では、ただの水に近いような、どうでもいいようなお酒を出すのが普通だったのでしょうねえ。

 

それなのに、そのただの水が化けたぶどう酒は、

最高の味だったというのです。

 

イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。

それで、弟子たちはイエスを信じた。

ヨハネによる福音書2章11節

 

それまで弟子たちはキリストのことを信じていなかったのでしょうか?

なんのために弟子になったのでしょう??

 

 

さてはて、


そのとき、キリストの母マリアは、困っていました。ぶどう酒を切らしてしまったからです。

わたしたちの生活も、たくさん困ったことが起きますね。

仕事のこと、家庭のこと、同僚仲間のこと、家族のこと、世界平和でも良いです。

色々困ったことが起こると思います。その時、私たちはどうすべきでしょうか。

 

母マリアはキリストに「ぶどう酒がありません」と言いました。率直に悩みを打ち明けたのです。

わたしたちもマリアさんがした通り、悩み事の解決をキリストに頼むべきだと思います。

 

 

しかし、それだけではありません。

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

ヨハネによる福音書2章5節

 

マリアは手伝ってくれる人たちに、キリスト・イエスが言うことはなんでもするようにと言いつけました。

すると、キリストは手伝いの人たちになんと言ったでしょうか。

水瓶にいっぱいになるまで水を汲むように言ったのです。

でも、いま必要なのは、たくさんのお水では無く、たくさんのお酒です。

 

私たちも、色々な事に思い悩み、解決を神さまに頼んだりします。それ自体は良いことだと思います。

しかし、神さまから「お水を汲むように」という回答が帰ってくることがあるかもしれません。

 

いやいや神さま、わたしが今欲しいのはお酒なんですよ!!お水じゃないんですよ!!!

お水なんて汲んだところで、何の意味もないじゃないですか!!!

私の仕事、私の勉強、私の人間関係、これが大問題だって言っているのに、神さまはなんでそんなとんでもないことを言い出すのですか??

そういう回答が来ることがあるかもしれません。

 

でも、みなさんご存じの通り、イエス・キリストは「水をぶどう酒に変えることが出来る」そのお方です。

もし神さまからの回答が、私たちにとってはよく分からないことだとしても、

お母さんのマリアさんが「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言った通り、

信じてなんでもしていくべきだと思います。

水を汲むという一見無益なことをすることでも、それをお酒に変えることの出来る方であると信じて行動すべきです。

神さまから帰ってきた回答であれば、信じてそのまま実行すべきだと思います。

 

でもなあ神さま、そうは言ってもあの人はたいへんなんですよ~~

でもねえ神さま。そうは言ってもこの仕事はとても大変なんですよ~~

いやいやこのことは、そんなに簡単にはいかないんだよ~~

と、条件を付けて神さまからの回答をないがしろにしてしまうようなことがありませんか?

 

わたしたちは毎日神さまに、色々な事をお祈りします。そのあと、神さまからの返答があった時、その通りのことをわたしたちがするのか、しないのか、とても重要な決断だと思います。

母マリアは、キリストがするように命じたことを、そのまま実行しました。その結果、ふしぎな過程を経ましたが、必要なものを得ることが出来ました。

私たちはどうでしょう?

神さまに願い事をしますね。でもその後に、

でもなあ、あの人は動かないんだよなぁ~とか、あの仕事難しいんだよなあ~などと難癖を付けて実行しないことがあるのではないでしょうか。

そのような人になるのでは無く、

神さまから言われたことは実行していく、それが私たちの神さまへの、イエス・キリストへの「信仰」です。

 

毎日神さまへは、どんどんお祈りして、神さまとの意思疎通をはかるべきですし、

神さまの言われることはなんでも実行できるような信仰をもって、毎日の生活を過ごして行くべきだと思います。