えっと、きょうの箇所は「ハバクク書」からです。

といって、おわかりでしょうか?

きょうの聖書箇所を探すのにも、一苦労だった方も多かったと思います。
そんな意味も込めて、「みんなが大好きな小預言書!!」とわざわざ表記させていただきました。
いわゆる、皮肉って言うやつです。

 


わたしはもともと小さいときから、みんなが大騒ぎする話題の物、メジャーな物より、あんまり人が話題にしない流行に乗らないようなマイナー方が好き!という、「性格の悪い人間」なので、

旧約聖書でも、たとえばユダヤ人にとってはとてもなじみがあって、とても大切な箇所である「エステル記」なんてのは、あんまり好きな方ではないんですよねえ。エステル記っていうのは、ユダヤ人にとっては「ユダヤ人という人種が滅亡するかどうか」のとても大事なお話なんですけどねえ。
その代わり、多くの日本にいるクリスチャンが素通りするであろう「民数記」とか、今日のような小預言書とか言う箇所は、わたしにとっては「とてもいとおしい」んですよ!
ということで私の大好きな「ハバクク書」のお話をしたいと思うんですが、

旧約聖書ってのは、まあみなさんご存知だとは思いますが、

「♪そうしゅつれびみん」のモーセ五書から始まって、「ヨシュア士師ルツサム列王歴代」までの歴史書、「ヨブしー箴言伝道雅歌」などの詩歌に続いて、「イザヤエレミヤ」などの「大預言書」と、ヨナやマラキ書などの「小預言書」が続く訳です。

 

で、おなじ預言書でも、イザヤなんてのは多くのメッセージで引用されていて、文体がカッコよかったり、直接イエスさまの誕生の預言していたりと、なにかとわたしたちにもなじみはありますが、さて、小預言書となると、いかがでしょうか?

 

小預言書のなかでも、たとえば♪ヨナは預言者~などと歌われる、魚に飲み込まれることで有名なヨナ書なんてのは、ノンクリスチャンでも知っている、とても有名なお話ですし、マラキ書も「十分の一を宝物倉に納めよ」いわゆる十一献金の箇所としてたびたび教会で取り上げられる箇所ですね。


それに比べると、ハバクク書はそこまでメジャーではないかもしれません。
でも、新約聖書を見ると、パウロはハバクク書をたびたび引用しているんですよね。


たとえば、

 

「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。
わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。
それが告げられても、あなたがたは信じまい。」

ハバクク書1章5節

 

 

この箇所は、使徒の働き13章41節に引用されています。これについてはあとで述べたいと思います。
また、

 

「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

ハバクク書2章4節

 

という箇所は、ローマ人への手紙1章17節やガラテヤ人への手紙3章11節にも引用されているんです。ヘブル人への手紙10章38節にも引用されていることはされているんですが、まあヘブル人への手紙は最近ではパウロが書いていないとされているのでまあアレなんですが、とにかく同じ箇所が引用されているんですね。
それだけハバクク書というのは、新約聖書の中では親しまれている箇所なんですよ!実は!


で、ハバククさん、実在する方であろうとは思うのですが、他の預言者たちに比べると、実はどういう人なのかというは、あまりよく分かっていない方なんですよね。


ハバククというお名前は「喜び迎える」という意味、英語ではEnbrace、抱擁して迎える、つまりこうハグして熱く出迎える、とかの意味があるわけです。本名なのか、 (おくりな:通称)なのかは分かりませんが。

生きていた時代も、じつはあまり分かっていません。たぶんこれぐらいではないかというのは分かるんですが、

ハバクク書1章6節にハバククに対して神さまが「見よ。わたしはカルデヤ人を(これから)起こす」と言ったと書いてあるので、ダビデ・ソロモンのあと南北に分裂した北のイスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされたわけですが、そのアッシリヤ自体も、その後カルデヤ人が起こしたバビロニアによって滅ぼされる訳です。

ですから「わたしはカルデヤ人を起こす」、つまりこれからカルデヤ人の国が勢力を伸ばしてくるぞ!と言っているわけですから、まだバビロニアがブイブイ言わせていた時代ではなく、その前のアッシリヤがいわゆる「肥沃な三日月地帯」をまだ占領していた時代にいた預言者なのではないか?と言われています。
ということで、預言者エレミヤと同じ頃に活躍していたのでは?とも言われています。
 


で、預言者エレミヤについて詳しい話は、こないだも「おはなしのじかん」でお話しましたが、
こう、北王国がアッシリアによって滅ぼされる→アッシリアが滅びてその後バビロニア来る!→南王国はエジプトに助けを求める!とかいう時代だったわけです。
 

で、これもおはなししましたが、

当時のイスラエルもユダ王国もエルサレムも、アッシリアとかバビロニアとかいう、周辺の強大な国が攻めてくる!!って言うときにどうしたかというと、わたしたちの知っている天地を造られた神さまに頼るより、大国の1つであるエジプトを頼ったり、こういう偶像に頼っていたりしたわけです。
というわけで、

ここまでこの時代に関するバックグラウンドを一通りをお話ししまして、やっときょうの本題であるハバククさんの話に入りたいとおもうのですが、
 



このハバククさん、嘆いているわけです。クリスチャンの私たちというのは、どうも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」とあるので、いつも喜んでいなければいけないの?と思うこともあるかとは思うですが、そんなことはないですよね、人間なんですから!

とても悲しいと思えば、大声で嘆けばいいとおもうんですよ。自分の感情を神さまに晒しても良いと思うんですよね。

 


で、ハバククさんは何を嘆いているかというと、先ほどお話しした通り、北から強大なアッシリアとかバビロニアとかが攻めてくることが分かって居るのに、エルサレムに住んでいる人たちはみんな神さまを知っているはずなのに、だれも神さまを神さまとしない、それより偶像を大切に拝んでいたわけです。

自分たちの国がとてお大変な時なのに、それなのに、それだからこそ、なおさら神さまにより頼まなければいけないだろう時に、神さまよりも偶像を拝み、また「暴虐と暴行」とも書いてありますので、エルサレムの街中で略奪や暴行がはびこっているような時代だったようです。
それを「あなた(神さま)はいつまで、聞いてくださらないのですか」とハバククさんは嘆いているのですよ。

 


1章3節だなんて、「あなたは私に(わざわざ)わざわいを見させ」ているし、神さまはその様子を「労苦をながめておられるのですか。」

こんなに苦労している私たちのことを忘れて、優雅に高みの見物を決め込んでいるんでしょ!!!っていう対応を神さまがとっているように見えるたです。


どうでしょうか?私たちの毎日は、「いつも喜んで」「全てのことについて感謝」出来るような毎日でしょうか。

そういう方もいらっしゃいますし、それどころじゃないよ!と言う方もたくさんいらっしゃると思うのです。毎日毎日いろいろなことが起きますので、それが楽しいことばかりじゃあないですよね。特に今はこの新型インフルエンザの色々で、自分が罹っていなくても、心配になってくるわけじゃ無いですか?!普段のことがいろいろあるのに、その上でこう、なんかとんでもない悲劇的なイベントが起きてくる!!もう人生耐えられない!!ってなっていてもおかしくは無いと思うんですよ。人間なんですから

それなのに、神さまはわたしには答えて下さらない!ように思えるんですよ。こんだけわたしがお祈りしているというのに!!

それに対しては、神さまは5節から答えています。、

 

「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。
わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。
それが告げられても、あなたがたは信じまい。」

ハバクク書1章5節

「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」ちゃんと神さまとしての考えがあるんだよ!というのです。それを、私たちが信じようが信じまいがちゃんと予定しているというんですね。私たちが驚くようなことをです。
これ、さきほど述べた通り、後々パウロがこの箇所を引用しているんすよ。

 

アンテオケの教会堂で、長々と旧約聖書のお話をした後に、この5節を引用しています。
「あなたたちが信じようが信じまいが、神さまは驚くようなことを用意している」んですよ!っていう箇所を用いて、イエスさまこそが旧約聖書で切望されていたメシヤ(救い主)なんですよ!と説明しているのですね。


じゃあ実際、神さまがなにをするのかというと、6節にある通り、カルデヤ人をユダヤ人の元によこすと言うのです。

カルデヤ人っていうと、みなさんどういう印象でしょうか。ユダヤ人の「永遠のライバル」であるペリシテ人とかに比べると、あまり印象深く無いようにも思えるのですが、実は聖書の中では、あの有名な人がそのカルデヤ人だというのです。

 


えっと、ノアの箱舟のあと、ノアの子供たち、セム・ハム・ヤペテから人類が増えていく訳ですけど、そのセムからずっと続いてアブラハムさんが生まれるわけです。その系図が創世記11章に延々と続いて行くわけなんですが、

その創世記11章31節にはアブラハムさん、当時はまだアブラムさんですが、そのアブラハムさん家族が「カルデヤのウル」に住んでいたのがそこから出て、最終的にはカナンの土地へ旅立っていったと書いているんですよ。

 

で、いままでの多くの、聖書の後ろにおまけで付いているような地図でいうと、この今で言うクエートに近いところから、この創世記11章31節にあるようにハラン(古い聖書だとカラン)に来てから、約束の土地であるカナンにやってきたとする物が多いんです。これは使徒の働き7章でステパノさんがそう語っているので、当時の人たちはそういう考えだったのが未だに残っているのだと思います。しかし最近考えられているのは、そのクエートに近い方のウルではなく、今で言うトルコ領内にある方のウルからアブラハムさんたちは来たのではないか?というのです。

 

なぜかというと、カルデヤ人がアッシリアを破ってバビロニア帝国を勃興させた時は、そのクエートに近い方から旗揚げしたので、ステパノさんの時代の「カルデヤ人」の認識としては、「カルデヤ人=クエートに近い方(ステパノさんの言い方では「メソポタミアにいた」)」だと思うのです。

ですが、最近では「カルデヤ人」は、アブラハムさんたちがいた頃にはこのトルコ領内にいて、そのあとクエートに近い方に移動してから勃興、バビロニア帝国を建てたのでは無いか?と言う説が強いのです。


日本人の私たちには、民族が移動するというのはあまり理解できないかもしれませんが、ヨーロッパやアジアでは多くの民族が現れ、その民族に追い立てられるように逃げて違う場所で活躍する、などということはよくあることです。ヨーロッパのゴート族とかケルト民族なんてのも広範囲にヨーロッパを移動して居ますし、いわゆる「蒙古襲来」ではユーラシア大陸の多くの民族が大移動を強いられたわけです。

ではなぜ多くの聖書に付いているような地図では、アブラハムさんたちがこの「クエートに近い方」のウルから移動してきたように未だに書かれているのかというと、先ほどのステパノさんのたちが認識していた「カルデヤ人=クエートに近い方(ステパノさんの言い方では「メソポタミアにいた」)」が未だに残っているからだと思われます。

 

で、このカルデヤ人はどういう人かというと、
 


「強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領」するような、とんでもない人々だというのです。
で、そんなとんでもない人たちを神さまはよこすよ、って言っているのですよ!

だれに?

エルサレムでは「暴虐と暴行」が毎日行われているから「助けてください!」ってハバククさんが神さまに叫んだからです。だからエルサレムに寄越すと!っていうのです!

どうですか、この仕打ちです!

 

まさに5節の「わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。」の通りですわ!



この神さまからの啓示に、どう答えましょう?
みなさんならどうしますか?
今まで学校の中で校内暴力があるので困っていたので助けを求めたら、なんと海外マフィアがやってきて、学校中をぐちゃぐちゃにしただけでなく逮捕者や売り飛ばされる者まで登場してしまった!というような出来事がこれから起きるのよ♡って言うのです。

同時代であるとされるエレミヤさんは、それを聞いてどうしたのか?
 

エレミヤさんはこのエレミヤ書29章10~11節にあるように、70年間バビロニアに捕囚されるけれども、それはその時だけのモノであって、そのあとは戻ってこられるんだよ、だからバビロニアに捕囚されても大丈夫だよ!だから無駄な抵抗をやめよう!とユダヤ人に説いていたわけです。でもまあ、強大な国家がやって来て良いようにされてしまうと分かっているのですから、もちろんユダヤ人には受け入れられなかったのですが。

 


んで、じゃあハバククさんはバビロニアによって滅ぼされ、捕囚されるよ!って言われたことにたいして、どのように思ってどう神さまに答えたのでしょうか?

 


実はここからが、やっときょうの本題なのですが、
 

ハバククさんは、なにから語り始めたか。

 

主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。」神さまは素晴らしいですよね!と、ちゃんと賛美の言葉を語ることから始めています。お祈りの基本です!!

「主の祈り」でも「御名があがめられますように」から始まっていますものね!

 

私たちは死ぬことはありません。」どんなことがあっても、ユダヤ人は神さまにとって選ばれた存在ですから、死に絶えること、絶滅して消えることはないでしょう。
主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。」ユダヤ人が、エルサレムの民が酷いことになっているから困る!といったはのハバクク自身の言葉であります。
でも、でも!!

あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう」嫌みですね。神さまは清すぎて、下々の悪いところなんかどうせ見ないんでしょ?という、ものすごい嫌みです。
なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」自分たちが悪かったのは認めるけど、よりによってなんであんな暴行と暴虐の限りを尽くすようなカルデヤ人たちを送ってくるだなんて言うのですか?神さま?!送るにしても、もっとマシな人たちがいるんじゃないですか?
わたしがこれだけ苦労していてユダヤ人の中の色々な問題で困っているっていうのに、な~んか、適当にカルデヤ人送っておけば良い!みたいな風に思っていません?よりによって悪いことをしているユダヤ人よりももっと悪行の限りを尽くす相手をよこすだなんて、何考えて居るんですか!

 


15節からは、そのカルデヤ人なんてこんなやつじゃないですか?!ってのが続きます。

どんなやつかというと、武力に依り頼みその武力を信奉している人たちだっていうんです。釣り針とか網とかいう言い方をしていますが、諸外国に戦争を仕掛けては投網したようにその土地の富をうばっていくようなやつらなんだと。そして
彼はその網に(たいして)いけにえをささげ、その引き網に香をたく」軍事力だけを信奉しているようなやつらなんですよ!神など必要ないと言っているんですよ!!!とね。

ユダヤ人もたしかに酷かったけど、神さまほんとうにそんなやつらをユダヤ人を絞めるために用いるんですか?
ってハバククさんは神さまに問いかけるのです。


どうでしょう?わたしたちは毎日のいろいろな問題や不安に対して、真摯に向き合っているでしょうか?その問題や不安を「こわいこわい」というだけで、神さまに投げかけるという努力というか行動を行っているでしょうか?そしてその答えに耳を傾けているでしょうか?
そしてその答えを知ったときにどうするのでしょう?
ほんとうにわたしたちには理解できないような、とんでもない方法で神さまは事態を解決させようとされることがあるのです。

 


さて、このハバククさんの嘆きに対して、神さまはどのように回答されたのか。
2章の4節を見ます
 

これ、版によってちょっとずつ前半の訳し方が違うんですが、前半に書かれている「高慢」とか「うぬぼれている」とか「心がまっすぐじゃ無い」とかいうのは、もちろんカルデヤ人とか、元々制裁するつもりだったエルサレムの人々のことですよね。そいつらがとんでもないやつらだ!という神様からの説明がこの後2章5節以降ダラダラと続くんですが、大事なのは4節の後半のほうですよね。

 

正しい人は その信仰によって生きる

ココに書いてあるのは、神さまを信じるのに、信仰が大事なのか行いが大事なのか?というはなしではなく、神さまのなさろうとしていることを私たちが信じ切るかどうかということがわたしたちに試されている、というのです。

わたしたちは、神さまがなさることに対して、「いや、神さまがなさることなのだから、そんなことが起こるはずが無い!」とか、「もっと早く行われるはずだ!」とか思うことも多々あるとおもいます。
「こんなはずじゃ無かった、これは神さまの御心じゃ無い!」と勝手に決め込んでしまうこともあるでしょう。
でも神さまは、わたしたちに「最悪な事態」を用いて語られることも多いのです。それを一方的に「神さまからのものじゃない」「こんな愛のないことは神さまがなさるはずがない」と決め込むのは、聖書的ではありませんね。

 


イエスさまのお母さんの方のマリヤが、いわゆる受胎告知されたときに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と、自分自身が超絶摩訶不思議な状態に置かれているのにもかかわらず、神さまを賛美したことも特に注目すべきことかもしれません。


このあとハバククさんは3章で神さまを賛美します。ほんとうはこの後のお話をしたかったので、その意味では今までのは全部「前振り」だったりするのですが、そこまでお話するとかなり長くなるので、その話はまたの機会にしたいと思います。