聖書箇所 ルカによる福音書15章1節から10節

 今読んでくださった箇所が、有名なイエス様のたとえ話が3つ続いている場所になります。たとえ話ですからじっさいにあった話とか言う訳ではないんですけどね
一つ目が「まいごのひつじの話」、2つめが「無くした銀貨のお話」、3つ目が「放蕩息子のお話」として有名なお話。
この3つのお話はじゃあ誰に向けて話したのか!羊飼い業者に語ったのか?そうではなく、ルカ15章の3節にある通り、「パリサイ人や律法学者」に向けてたとえ話をしているのですね。じゃあこの「パリサイ人や律法学者」ってのがなんでイエス様そばにいるのかというと、ルカ15章1節にあるとおり、「取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」わけなんです。それをみて「この人は、(自分のことを神の子だ!清いって言っているくせに)罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする!」なんということだ!!って怒っているわけですよ。自分まで汚れてしまうじゃないか!って。
そこでイエス様はこのパリサイ人や律法学者に向けて、この3つの有名なたとえ話をしたわけです。

新約聖書の、特に福音書を読むと、よくパリサイ人や律法学者ってのが、イエス様のすることになんでも反対する、いわゆる「敵対勢力」のように見えてしまうことがありますね。なんかすんごく悪い人のように思えてしまうことがあるんですが、実際はそうではないですよね!(旧約)聖書のことならなんでもよく知っている専門家で、それをみんなに教えて指導する、今で言えば教会の司祭とか、牧師や宣教師といった立場の人たちなわけです。それぐらいみんなに慕われた立派な宗教指導者なんですよ。でも聖書のことをよく知っていたとしたも、聖書のことをどれくらい理解していたのか、木になるところではあります。たとえば「良きサマリヤ人」のたとえ話なんかでは、ユダヤ人が(当時)嫌っていたサマリヤ人よりも悪いというか、劣った人かのように扱われていたりします。これはたいへん不思議なことですね。
聖書の言葉を知ってはいたのに、たとえば安息日にはこれをやっちゃダメとかいうのはすんごく守るくせに、じゃあなんで神さまはそうされたのか!というのが分かっていないというか、理解しようとしていなかった状態だったのではないでしょうか。

それで、この3つのたとえ話には共通点があるんですが、まずひとつめの話が「まいごのひつじの話」。
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有名なお話なので、よく絵に描かれていたりします。

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こうやって、羊飼いさんががんばって99匹を野原に残してたった一匹の小さな子羊を探していく訳です。羊飼いにとっては羊はどれも大事、一匹いなくなっても別にいい!とは思わないんです。2つ目のお話が「銀貨を無くした」お話ですが、新改訳聖書だと、このなくした銀貨には「ドラクマ」って脚注(キャプション)がついています。このドラクマって言うのがギリシアのお金で、当時ギリシアは地中海世界の政治経済の中心都市でしたから、そのお金はみんな知っているわけです。1ドラクマがいくらぐらいかというと、だいたい1日分の労働量だと言われていますから、1万円ぐらいでしょうか。でもこの銀貨をなくした女性にとっては今の日本で言えば倍の価値、銀貨1枚が10万円ぐらいの価値があったのかもしれません。最初のお話、羊が一匹いなくなったというのも、遊牧を拠点とする生活をしていた人に取っては羊が一匹いなくなったっていうだけで経済的に死活問題なわけですから、一匹の羊を探すというのも、羊さんが暗くて恐くて可哀想だから早く探しに行ってあげなきゃ!というよりは、羊飼いさんにとっては経済的にものすごく価値があるものだから、それを失うわけにはいかない!という意味合いもあるのだとおもいます。

でどの絵にも大概出ているこの羊飼いさんってのが、けっこう格好いいんですよね。聖書の中では旧約聖書の時代から、私たちがさまよっている羊で、羊飼いが神さまだという風に書かれていることが多いですよね。
有名な詩編23編の「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」っていうのも、神さまがわたしたちを導く大切な羊飼いだって書いてありますね。
ヨハネによる福音書10章14節と15節というところには、こう書かれています。
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「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」
世の中をあっちこっちとさまよう、まいごの羊のような私たちを、「そっちじゃないよ!こっちに来なさい!」と指し示してくれるのがイエス様なんですよね。「そっちには狼がいるよ」「そっちは崖だから落ちちゃうよ!」とか。私たちがさまよっているのを見つけ出し、正しい道に連れ出してくれるのです。
そして、いなくなった羊を見つかると、隣近所や友達まで呼んで大騒ぎをするんですよ。『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』って大喜びするんです。

なくした銀貨の話もそうです。家中探しまくって、やっと見つけて、隣近所呼んで大騒ぎするんですよ。
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『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』って。


もうひとつの放蕩息子のたとえも、話し出すと長いので端折りますが、

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死んでいたのも同然だと思っていた下の息子が生きてなんと帰ってきた!とお父さんがもの凄い勢いでお祝いをするのですね。


そう、この3つのお話には共通点があります。
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1つ目が、自分の大切なものが行方知れずになった、そしてそれをもの凄い勢いで探したということです。「放蕩息子」のお話の父親はそんなに探してない感じがしますが、20節に家から遠く離れたところにいた弟を見つけて駆け寄ったと書かれているので、ひょっとしたら毎日毎日息子が帰ってくるのを心配しながら待っていたのかも知れません

2つ目が、探したんですよ。そして、あった!!んです!もう無いってあきらめかけたかも知れません。でも、探したんですよ!わたしも結構よく無くすんですけど、まあ、そのうち出てくるか!と思ってあきらめちゃうことも多いんですよね、これが。それで忘れた頃に出てきたりするんです。神さまに委ねるってことも大事だとは思うんですが、本当に必要なモノならば、神さまと相談しながら、積極的に探していくことはだいじだとおもうんですよね。で、その結果見つかるんです。

そして3つ目が、おもいっきり喜んだんです!隣近所の人まで呼んで、パーティーを始めちゃうぐらいに!すごいですよねぇ~!銀貨を見つけて隣近所や友達に、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』って!


はい、という3つのたとえ話なんですが、ようするにですね、
① わたしたちは、それだけ価値のある存在である、ということです。
最初に話しました通り、このお話を誰にしているかと言えば、イエス様はパリサイ人や律法学者にしているんですよね。イエス様は、そのパリサイ人や律法学者に、「あなた達が交わりを持たないようにしている、取税人とか罪人とかが救われるというのは、こんなに意味があることなんですよ!」「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」って7節にありますが、神さまに背中を向けて、神さまなんか要らない!って言っていた人が神さまを信じるってことは、それぐらいすごいことなんですよ!って。だから聖書の専門家であるパリサイ人や律法学者さん、あなたがたがまずそういった『罪人』と言われる人を神さまの元に連れて行ってあげられませんか?神さまはそう言う人を探して救う(神さまのそばにいさせる)ためにいるんですよ、ということを言いたかったんだと思います。

ミッションバラバという、むかしは本物のヤクザだった方、その方が洗礼を受けた時の思いを綴っているのを見つけたので、ちょっと長いけど引用します。
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まだイエス様を心に受け入れることが出来ない方がいれば、ぜひ神さまをよく知って頂きたいです。神さまはみなさんがたとえどんな人であっても、ほんとうにみなさんのことが大好きで、今どういう場所にいたとしても、間違った道に進んで欲しくないと思っているんです。この羊飼いが99匹を置いていってでも、最後の一匹ちゃんを探したのように、それだけみなさんのことを大切に思っているんですよね。
みなさんを助けたいと思っているのです。ですからぜひイエス様を心に受け入れて欲しいと思います。


そしてもうひとつ
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② 残された99匹に まさるよろこび
このお話がパリサイ人や律法学者に向けて書かれたとすれば、これこそ今回のこの3つのお話の大事な論点なのですが、1匹の羊が大事なのはわかったけど、じゃああとの99匹の方はそのままでほったらかしでいいの?普通考えたら1匹いなくなるより99匹いなくなる方が問題でしょう?ってなりますわね。。。
これはたぶん、こういうことだとおもいます。
銀貨を無くしたのは10枚のうち1枚だけでした。あとの9枚は女性の大事な金庫とか、お財布とか、そう言う場所にちゃんとあるのだと思います。探している女性の側に残りの9枚があるわけです。
また「放蕩息子のたとえ話」に出てくる、ふてくされた上の息子に対し父親が『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』って言っています。


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つまりこのことから、残りの99匹の羊は最後の1匹を探しに行く時にはもうすでに安全な場所にいると考えてもいいと思うのですね。

イエス様を信じる、イエス様の十字架を心に受け入れるというのは、死んだ後に天国に行けるということももちろんあるのですが、たとえば恐い狼などから守ってくれる、危ない場所に行かない様に守ってくれる羊飼いのように、いつもわたしたちの側にいて、愛して守っていてくれているわけです。イエス様を心に受け入れている人というのはもうすでにそれだけのモノをもらっているわけです。「放蕩息子のお話」の上の息子のように。
ですから既に信じている私たちがすべき事は、その「既得権益」というか、もうすでに受けている神さまからの恵みを、抱えて離さない、独り占めにするのではなく、どんどん分け与えていく、よしんば羊飼いさんの様に出ていって、迷子の羊を探すようになることをイエス様は求めていたのではないでしょうか?まだまだ迷子の羊はたくさんいますね。
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『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。』ルカ15章7節