欧州に来て数か月になるが、こちらで知り合う人たちは驚くほどオリンピックに関心がない。たまに話題に出ると(というか、私が話題に出すと)、「え、マジでオリンピックやるの?」という反応がほとんどで、少し関心がある人でも「日本人の大半が開催に反対してるんでしょう?」という認識。そのせいか、私もオリンピックムードにはまったくならずに開会式の日を迎えた。

 

とはいえ、こちらでは夏休みの真昼間だったのでテレビで開会式はチェックした。内容については特に言うことはないのだが、開会式に至るゴタゴタには心底ガッカリした。一番ガッカリしたのが、総合演出の名前を外したのに、演出の大部分を残したらしいという点だ。

 

小林賢太郎(ラーメンズ)の過去のネタに関しては、非難されて当然だと思う。しかし、小山田圭吾のように個人が実際に犯した加害行為と、作品における表現とを同列に扱って即座に降板させたのは疑問だ。表現に対する批判は、もっと丁寧に行われてほしい。

 

『帰ってきたヒトラー』や『ジョジョ・ラビット』やモンティ・パイソンがOKで、ラーメンズのあの一言がダメなのはなぜか?そもそもどのような設定において、どのような文脈で発せられた表現なのか?ユダヤ系にルーツを持たない人間がその題材を扱うことによって、どのように無自覚な暴力性が立ち現れるのか?そういった徹底的な検証を経て、「あれは絶対にダメだ」という認識を共有する必要があるのではないだろうか。

 

もっと納得がいかないのは、小林賢太郎を下ろしたのに、演出は温存した点。「総合演出家を下ろすということは、演出ごと破棄するんだなー、すごいなー。間に合うのか?」と思っていたら、演出はステイと聞いて仰天した。私の中では考えられない判断だったからだ。

 

舞台の演出家には色々なタイプがいる。すべてをコントロールする完璧主義者もいれば、みんなの意見を積極的に取り入れる柔軟な人もいる。信じられない斬新なアイデアがポンポン出てくる天才もいれば、圧倒的な知識量と尋常じゃない読み込みで苦しみながら作品を作り上げる努力家もいる。初日が開けたら劇場に全然来ない人もいれば、毎日毎日来て必ずダメ出しをする人もいる。ぶっちゃけ、自分では何も決められずにスタッフやキャストの意見に流されまくる人だっている。

 

このように色々な人がいるとはいえ、結局のところカンパニーの空気を決めるのは、やはり演出家なのだ。尊敬される超有能な演出家にはみんながついていくし、ダメダメな演出家ならみんながナメて雰囲気が悪くなる。頼りないのに、愛されキャラで周りが放っておけずにみんなが頑張ってなぜかいつも良いものが出来上がるってパターンだってある。どうしたって作品の要は演出家であり、超重要なポジションなのは疑いようがない。


出演を兼ねていない演出家はステージにいない。楽譜と演奏者がいれば指揮者がなくてもメロディは奏でられるように、演出家がいなくてもセリフがあればお話はできる。でも、指揮者がいなければ、演出家がいなければ「作品」にはならない。私はそう思っている。総合演出家は個々の細かい演出を手がけるわけではなくとも、やはりいなければ全体としての「作品」にはならないはずだ。


端的に、表現とディレクターを切り離してはダメだ。いなかったことになどできないのだから。それがOKになってしまうなら、ディレクションってなんなの?名前だけ消せばいいだろって?アホか。全力で演出をしているすべてのディレクターに対して、あらゆるクリエイターに対して失礼すぎるよ。みんな、ジェームズ・ガンのときのことを覚えていないのか?


五輪を手がけてはいけない人に頼んでしまったと認めるなら、開会式ごと諦めて潔く選手入場と挨拶と聖火点火だけにすればいい。そもそも任命責任ってやつはどこにいった?自分たちは謝りもせず本人だけのせいにして名前だけ消して、作ったものは利用して……バカにするのも大概にしてほしい。


そして、作品を批判するということは感情論であってはならないと私は思う。繰り返しになるが、どういった文脈でなされた表現だったからダメなのかを検証せずに、単に「不謹慎だ」で排除するのでは今後もまた同じことが起こってしまう。検証した上で「絶対ダメ」なら、それごと引き受けるのが組織委員会の責任ってものでしょう。今回の小林賢太郎に対する雑な展開には残念以外の言葉がない。



※個人的にはあの表現はアウトだと思います。でも、20年以上経った今の彼の表現についても同時に検証する必要があると感じます。そして、あくまでも表現の範疇の話なので、小山田圭吾やのぶみとは全く話が違うという立場です。