「かみさまとのやくそく」というドキュメンタリー映画を観た。感動的な映画らしいのだが、俺は... | 辻斬り海ねぇさん

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「かみさまとのやくそく」というドキュメンタリー映画を観た。 感動的な映画らしいのだが、俺はちっとも感動しなかった。 内容は、要約すると、子供は親を選んで生まれてくる、子供自身が望んだ環境に生まれてくる、というもの。 別に科学盲信の科学教信者ではないのだが、理知を重んじる俺は、因果関係がハッキリしないものについて、みだりに信用したりしないのだ。 いい大人なんだし。 また、子供が親を選んで自ら望んだ環境に生まれる、という主張にも激しい違和感を覚えた。 つまり、虐待を受けている子供の目線がまるでないとしか思えないのだ。 のうのうと暮らしている俺などに想像もつかないような過酷な虐待を受けている子供に、この主張を当てはめることが出来る者が果たしているのだろうか。 仮に、虐待を受けてる子供がこの映画を観て、自分が受けている虐待に意味や希望、生まれてきた目的を見出したとしよう。 だが、それで何が解決するのだろう。 そして、その子供が他の虐待をうけている子供らに、「虐待にも意味がある。あなたが望んだことなのだから。目的のあることなんだ。」と説いてまわったとしよう。 それで救われる子供もいるにはいるかもしれない。 だが、自分が受けている虐待に意味や目的、希望を見出したことを、他人に押し付けて、同じように意味や目的、希望を見出せ、と迫るのは、あまりに残酷ではないのか。 映画でこういった例はなかったが、極端なたとえ話でいうと、俺が感じる違和感とはそういうことだ。 大人が自分達の責任において、子供を産んだのにもかかわらず、子供に生まれた責任を取らせているという構造である。 大人の、大人による、大人の為の童話を子供らに語らせることで、子供自身の、子供による、子供の為の童話に作り変えてる。 そしてそこにあるのは、子供に全ての責任をおっ被せた、大人の無責任な態度だ。 映画を観た人は、「子供自身が語ってるから」信用できる、という向きもあろう。 だが、よく観れば最初から目的ありき、ズバリ言えば、正解ありきで大人が質問しているのだ。 質問が答えを枠組み、誘導することなど、大人なら意識せずとも知っていることだ。 虐待を受けている子供を被害者にしたり、憐れんだりすることは、子供に失礼、などという人もいるだろう。 だが、その前に大人の責任を問わなければならないのは、ごくごく当たり前のことだと、俺は思うのだ。 借りにだ。 この映画の主張するように、「子供は親を選び、環境を選んで生まれてくる」のだとしよう。 だが、子供を産むという判断、もしくは妊娠させる行為をしたのは、まぎれもない大人なのだ。 この映画にはその大人の判断、大人の行為の責任がすっぽり抜け落ちてる。 だから激しい違和感を覚えるのだ。 子供に大人のケツ拭かせるマネしといて、ご高説垂れんじゃねーよ‼️ というのが、俺の結論である。 #かみさまとのやくそく

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