令和六年(甲辰) 皇紀二六八四年 西暦2024年

7月(辛未) 9日(甲戌 きのえ・いぬ)

和暦 水無月四日 第5669回

 

(塚山公園に久しぶりに行った。切っ掛けは金魚二匹。旧家屋の裏庭に置いてあった大きな甕に最後まで生き残った二匹をどこに放つのか?悩んだ末に、神田川か?塚山公園の池?に二択になった。最終的に塚山公園の池にした。いきなり広い世界に放り出された二匹の運命は?二匹で寄り添いながら周りの様子を感じ取ってなにやら会話しているように思えた。「ありがとう。元気で生き抜くなんだよ」とお別れを告げた)

 

【人生は織物】(志村ふくみ・人間国宝、染織作家「致知2013-11」)

 

 人の人生も織物のようなものだと思うんです。経糸はもうすでに敷かれていて変えることはできません。人間で言えば先天性のもので、生まれたところも生きる定めも全部自分ではどうすることもできない。ただその経糸の中に陰陽があるんです。

 

 何事もそうですが織にも浮かぶものと沈むものがあるわけです。要するに綾ですが、これがなかったら織物はできない。上ってくるのと下がってくるのが一本を気になっているのが織物の組織です。そこへ緯糸がシュッと入ると経糸の一本一本を潜り抜けてトン、と織れる。

 

 私たちの人生もこの通りだと思うんです。いろんな人と接する、事件が起きる、何かを感じる。でも最後は必ずトン、とやって一日が終わり、朝が来る。そしてまた夜が来て、トンとやって次の日が来る。これをいいかげんにトン、トン、と織っていたら、当然いいかげんな織物ができる。だから一つ一つの真心を込めて織らなくちゃいけない。

 

【海乗の独り言】

 

 今回の「事故」に遭わなければ、金魚たちの運命は変わることなく、その甕の中で生涯を終えるところだったに違いない。そう思うと、金魚らの運命はこのタイミングで広い池に入れられて、危険度は大いに増し、自然の弱肉強食に晒されながら、それでも生きなければならない。

 

 その金魚らがこの池になじめるのか?心配でしばらくの間眺めていた。すぐに解き放たれた嬉しさに勢いよく泳ぎまわると思いきや、二匹で寄り添いながらじっと様子を眺めている姿に、数十年前に故郷(大分)の親元を離れて、福岡の大学へと間借りして自分の足で歩みだした時のことが重なった。

 

 寮生活に入った僕が心配で、福岡に両親がこっそりと見に来ていたことを後で知って、深い親心の愛が伝わってきたことを思い出した。大きな鯉や野生的な小魚たちが元気よく泳いでいる中になじんでいけるのか?じっとしていれば餌が定期的に与えられていたのに、この池では自立せざるを得ない。

 

 今朝、水没した書棚の中から救出した「致知」の中からチョイスした平成二十五年(2013年)11月号、特集は「道を深める」とあった。「命理道」も「食事道」も「道」なので、「深める段階に入れよ!」との宇宙からのメッセージかもしれないと思い、広げてみると、志村ふくみさんの「人生とは織物である」とのお話に共振した。

 

 「経糸はもうすでに敷かれている」との言葉に、先天的に派遣されてきた時にいただいた「両親」「家族」「土地」「時代の」等々の先天因子の定めの経糸の存在を強く認識した。そして、そこに入ってくる緯糸が、人間関係、起きる事故や事件を通して感じ取り、思い描くその自由な想念波動となって、今世の人生を紡いできたのだとしみじみと記憶をたどりながら、味わい深く何度も志村ふくみさんの記事を読み返した。

 

 永遠に来ない「明日」や「明後日」、「来年」、「再来年」に焦点を当てて、言い知れぬ不安感や恐怖心を自ら作り出し、アドレナリン、ストレスホルモン等が身体をむしばんでいくことにもうお別れを告げるときが来たように思う。

 

 「今、ここに、いのちを生きている自分自身」である。この原点に立ち返るために、辛く、苦しい出来事をしっかりと受け止め、なぜどうして?ではなく、「何かきっと深い意味がある。有り難う」と前を向くことから、今日の人生の織物を、トン、と織りたいと思う。

 

【健康一口メモ】(内藤裕二・京都府立医科大学教授「致知2024-8」)

 

 3つ目の特徴が食事で、とりわけ現地で摂取されているタンパク質の内容が、都会に住む人と大きく異なっていました。京丹後市の元気なお年寄りが摂取しているタンパク質の内容は、根菜類、全粒穀類、豆類など植物由来のものや魚類が中心で、牛、豚、羊などの肉類はほとんど食べていませんでした。これは「ブルーゾーン」といわれる世界の長寿地域の食生活ととても類似しているのです。