令和六年(甲辰) 皇紀二六八四年 西暦2024年

2月(丙寅) 10日(甲辰 きのえ・たつ)

和暦 睦月朔日(新月) 第5519回

 

(和暦元日を迎えた。いわゆる旧正月である。高月美樹さんの「和暦日日是好日」によると、「睦月」の「睦」は聖なる場所を準備して心理を迎えること。転じて人々がそのために行きかい「睦み合う」こと。この世のご縁と命の繋がり、和する心を確認する「結び」の月。素敵な出逢いと交流が始まる)

 

【知命・立命・天命】(安岡正篤)

 

 実は自分を知り自力を尽くすほど難しいことはない。自分がどういう素質能力を天から与えられているか、それを称して「命」という。それを知るのが命を知る。知命である。知ってそれを完全に発揮してゆく。すなわち自分を尽くすのが立命である。

 

 命を知らねば君子でないという「論語」の最後に書いてあることは、いかにも厳しい正しい言葉だ。命を立てずともせめて命を知らねば、立派な人間ではない。

 

 命とは先天的に付与されておる性質能力があるから「天命」といい、またそれは後天的修養によっていかようにも変化せしめられるものという意味において「運命」とも言う。天命は動きの取れないものではなく。修養次第、徳の修めかた如何でどうなるか分からないものである。決して浅薄な宿命観念などに支配されて、自分から限るべきものではない。

 

【海乗の独り言】

 

 年が改まると今年の運氣はどうなのか?今年はどんな運勢があるのか?等々を知りたいと言って鑑定を依頼されることがある。その場合注意しなければならないことがある。それが宿命的な響きがある「運命」という言葉である。

 

 「運命の出逢いをした」というが、「運命」は文字通り「命を運ぶ」と書く。誰が、もちろん自分自身である。そこは「ねばならない」という宿命的な世界ではない。そこにあるのはその人自身の自由意志と自由判断でそのご縁を活かすことができるし、そのご縁を活かせないこともある。

 

 その時に人は「良し悪し」や「善悪」の判断を下し、一喜一憂することが多い。ところがその「良し悪し」や「善悪」は当てにはならないどころか、「良いこと」に見えて、実は「悪いこと」だったり、「最悪に見えてけれども、「最善のこと」に繋がる不思議な出逢いだったりするのが人生である。

 

 命理学(四柱推命)の師匠に見捨てられる試練でどん底に落とされなければ、「命理道」への進化はなかったと思う。絶対絶命のピンチに立ったゆえに、早朝3時に起きての「寅の刻参り」に藁をもつかむ思いで挑戦したことが懐かしく思い出される。

 

 冤罪事件に巻き込まれ、詐欺師の一味だと誤解されて心が冷え切った時のことは忘れることができないが、天は味方してくださり、宇宙は愛であったことを体感させるために演出された神劇だったことに気づくにはある時間が必要であり、辛苦を味わう必要があった。

 

 全てが「修養次第」「徳の修め方」だというが、「いのち」そのものが何か?という本質に気づくことから人生が「神劇」であり、過去世と今世と来世が、今ここで「いのち」を生ききることで清算され、進化していくことを日々体感し、体現していくと確信している。

 

【健康一口メモ】(本間真二郎・医師「感染を恐れない暮らし方」)

 

 このことは微生物の観点からも説明できます。土の中の微生物は不要の有機物を分解し、植物に養分を供給している。地球の大きな循環の要です。それぞれの土地に異なる固有の微生物がいます。例えば。熱帯には熱帯地方の、温帯には温帯地方の、寒帯には寒帯地方の微生物がいます。さらに自然環境は気温だけでなく、天気、降水量、日照量、湿度、風、地形など様々な影響を受け、それぞれの土地で増えやすい微生物が異なります。