「世界に生かされている」と感じるとき | uminami-snusのブログ

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ある日自分の中でスッと納得できたことを鮮度のある内に残したい。個人的な備忘録であり、アタマの中を整理するためのもの。

「死にたい」と思ったとき

実際に死ぬかどうかは選べない

とすると、その二択において、結果的に進んだ道が「死」ではなく、「生」だった場合

「自分は世界に生かされているんだ」と思う感覚が強くなる

そもそも「死にたい」と思って「死にたい」と思ったわけではない

というか、「死にたい」なんて思いたくないのに「死にたい」と思うから苦しい

「死にたい」なんて思わなければ楽なのに「死にたい」と思ってしまう

つまり、思考はコントロールできない

「考えて思考しているわけではない」とはそういうこと

ひとは、
「Aについて〇〇と考えよう」
→「Aは〇〇だ」
という流れで思考しているのではなく、「Aは〇〇だ」と単発で思考している

そのような意味で、思考は意図的にコントロールしているものではなく、自動的に起こっているもの

つまり、「死にたい」と考えてしまうことついても

「よし!『死にたい』と考えよう!」
→「死にたい」と考えた
ではないということ

つまり、「死にたい」と考えたのは自分の意思ではない

もちろん、誰か他人にコントロールされている訳ではないという意味では自分の意図なのだけれど、かといって完全にコントロールできているかといえば全くそんなことはないし、自動的に起こっているという方が納得がいく

いずれにしろ、「死にたい」という考えは起こるときは起こるし、起こらないときは起こらないのだから、それをコントロールしようとしても無意味

そして、そのような意味では、「死にたい」と思った結果実際に死ぬか、それとも思いとどまってその気持ちがなくなるかは選べない

とするとやはり、結果的に死を選ばな買った場合、それは「生かされた」といえる気がする

自分で選ぶことができないのだから、世界から選ばされたということ、すなわち、それは世界に生かされたと考えることもできると思う