実際に死ぬかどうかは選べない
とすると、その二択において、結果的に進んだ道が「死」ではなく、「生」だった場合
「自分は世界に生かされているんだ」と思う感覚が強くなる
そもそも「死にたい」と思って「死にたい」と思ったわけではない
というか、「死にたい」なんて思いたくないのに「死にたい」と思うから苦しい
「死にたい」なんて思わなければ楽なのに「死にたい」と思ってしまう
つまり、思考はコントロールできない
「考えて思考しているわけではない」とはそういうこと
ひとは、
「Aについて〇〇と考えよう」
→「Aは〇〇だ」
という流れで思考しているのではなく、「Aは〇〇だ」と単発で思考している
そのような意味で、思考は意図的にコントロールしているものではなく、自動的に起こっているもの
つまり、「死にたい」と考えてしまうことついても
「よし!『死にたい』と考えよう!」
→「死にたい」と考えた
ではないということ
つまり、「死にたい」と考えたのは自分の意思ではない
もちろん、誰か他人にコントロールされている訳ではないという意味では自分の意図なのだけれど、かといって完全にコントロールできているかといえば全くそんなことはないし、自動的に起こっているという方が納得がいく
いずれにしろ、「死にたい」という考えは起こるときは起こるし、起こらないときは起こらないのだから、それをコントロールしようとしても無意味
そして、そのような意味では、「死にたい」と思った結果実際に死ぬか、それとも思いとどまってその気持ちがなくなるかは選べない
とするとやはり、結果的に死を選ばな買った場合、それは「生かされた」といえる気がする
自分で選ぶことができないのだから、世界から選ばされたということ、すなわち、それは世界に生かされたと考えることもできると思う