あれは決してたとえ話ではなく、実はこの世界の真実を表しているのだと思う
すべてはひとつであり同じ価値
森も鳥もビルも人も空気もすべて同じもの
仏教のいう「色即是空」「空即是色」であり、僕らは白紙の世界に思い思いに色を塗っているにすぎない
荘子のいう「万物斉同」であり「朝三暮四」
本来は何の意味も価値もない世界に、その世界にそれぞれが「解釈」を通して意味や価値を付けているだけ
そのような意味では、目の前の観客が家族だろうが、上司だろうが、恋人だろうが、他人だろうが関係ない
なぜならみんな本来は同価値であり、本質的には意味のない白紙の世界の一部に過ぎないから
もっと言えば、人だろうが、かぼちゃだろうが、じゃがいもだろうがみんな一緒
そこに僕らは思い思いの意味づけをしているだけで、本当はみんな無価値で白紙
だから、「観客みんなじゃがいも」とはこの世界の真実であり、この表現が気に入らなければ、「観客みんなニワトリ」でも、「観客みんなガッツ石松」でもなんでもいい
つまり、「観客みんなじゃがいも」とは、この世はすべて同価値であり、そこにどんな解釈を付けるかはアナタ次第ですよということ
と、ここまで言って終わってしまうのもなんか寂しいので少し話を展開させると…
大勢の人前に立つときに限らず、誰か他人と一緒にいるときは僕らはみんな常に緊張状態にある
誰しも例外なく僕らは誰か他人といるときは無意識の内に大なり小なり緊張している
家族や身内であろうと、恋人であろうと、旧友や幼馴染や親友であろうと、どれだけ信頼できる人物であろうと
あるいは、相手がひとりであろうと多数であろうと
または、電話やメールなどを介して人と接するような実際に物理的に一緒にいないときであろうと
僕らは誰かとコミュニケーションするとき、本人にその自覚がないとしても必ず緊張状態にある
その緊張の正体は「分離」からくるもの
それは「自意識」がある限り切り離せないものであり、自分以外の誰かと接するときは無意識ながらに「分離」を感じ緊張をしている
そしてその自分以外の誰かには必ず意味や価値をおいている
「この人はこんな人」
「この人にはこう思われたい」
そんな感じでその人に対する何かしらの解釈を自分なりに持っていて、それと同時に自分が相手に意味づけをしているのと同様に相手も自分に対して何かしらの意味づけをしていると認識している
つまり、お互いに相手に対してレッテルという名の「ラベル」を張り合っている
そして、その認識の根底には、自分には「自意識」があり、それと同様に相手にも「自意識」があると思っている
相手の持つその「自意識」、言い換えれば自分の持つ「自我」に対し、相手は「他我」を持っていると思い込んでいる
そのことを人は無意識に受け入れ当然のこととして日々特に意識することなく生活している
自分に「自我」と言う名の「自意識」があるのだから相手にも「他我」と言う名の「自意識」があるということを疑うことなく信じている
しかし、それは本当なのだろうか
目の前の相手には「他我」なる自意識はあるのだろうか
結論から言うと、それは決して証明できない
相手に「他我」があることを知ることは僕らには絶対にできない
なぜなら、僕らは自分の「自我」を通してしか相手の「他我」を確認できないから
自分の視界に広がる世界とそこから生まれる解釈を通してでしか僕らは世界を把握できないのであり、他人の「自我」なるものを経験することはできない
他者の視点からものを見ることは絶対にできないから
そして、もっと言えば、僕らは他者に「自意識」がないことを確認できないだけではなく、事実として他者には「自意識」はない
私たちは他者の中に「自意識」があることを確認する術がないから「自意識」はないという結論が導き出されるというものではなく、この世界のひとつの真実として他者には「他我」なる「自意識」は存在していない
このことに対して反論はあるとは思うものの僕にはその理解を促す説明をする能力はないので、ひとまずスルーして本題に進みたい
話が長くなったけれど、結局僕が言いたいのは、「周りの人物はみんな『自意識』なんて持っておらず、そう考えたらじゃがいもと等しいと思えないだろうか」ということ
そして、「周りの人をみんなじゃがいもと思えたら周囲の目や批判を必要以上に気にすることなく、伸び伸びと振る舞えないだろうか」ということ
他人と接するときに常に緊張状態にある僕らは他人の中に「自意識」があるからこそその緊張が生まれるのであり、他人の中に「自意識」がないと納得できれば緊張しなくなる
もちろん、相手に「自意識」がないからといって相手の迷惑を考えず傍若無人に振る舞っていいとか、好き勝手に自己中心的に振舞っていいとかいいたいのではない
でも、「相手には自意識がある」という思い込みを捨て、相手の中には何もいないということが納得できれば、緊張状態から解き放たれリラックスして生きてゆけるように思う
別な言葉で言えば、相手に何と思われようがどれだけ批判されようが関係ないということ
だってじゃがいもに「お前本当どうしようもないな!」とか、かぼちゃに「俺マジでお前のこと嫌いだわ」とか言われても傷つかないでしょ
それと一緒
相手に「自意識」があると思うから相手の目を気にしたり相手の言葉や行動に傷つくのであって、そもそも相手なんてのはいなくて全部意味も目的もないと知れば余計な悩みはなくなる
「他人の目」「常識」という呪縛から解放され、他人に依存することのない自立した「自由」に触れることができる
「わたしはいない」「すべてはひとつ」ということは理解できなくとも、「他人がいない」ということが腑に落ちれば、もっと軽やかに人生を生きていけると思う
繰り返すけれど、周りの人なんてみんな所詮じゃがいもに過ぎないんだから相手のことを顧みずやりたい放題やっていいということではない
自分らしく振る舞えず居心地の悪い思いをしてる人
他人の目を必要以上に気にして偽りの自分を演じている人
人と接することを楽しめず孤独な人生を送っている人
そしてそんな自分を嫌いになってしまい苦しんでいる人
そんな人が「他人はみんなじゃがいもだったんだ」と理解できれば、もっと自分らしくイキイキとした楽しい人生を送れると思う
そして、「他人はみんなじゃがいもだったんだ」というのは、「そんな風に考えれたら楽かもね」なんて空想の話ではなく、紛れもないこの世界の真実
「すべてはひとつであり意味はない」ということは、脳科学の世界でも、物理学の世界でも、量子力学の世界でも発見されている揺るぎない真実
老子、ブッダ、キリストなど過去の偉人たちが辿り着いたこの世界に隠された真実
「すべてはひとつ」「わたしはいない」という経験が起こるか否かは僕たちにはコントロールできないけれど、「わたし以外はみんなじゃがいも」というものの見方であれば受け入れられるのではないだろうか