相対的な「いま」と絶対的な「いま」 | uminami-snusのブログ

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ある日自分の中でスッと納得できたことを鮮度のある内に残したい。個人的な備忘録であり、アタマの中を整理するためのもの。

例えば20時から人と会う約束があって、19時に家を出る必要があった場合、時計が19時を指しているという現象は、その人にとって「家を出る時間」という意味づけができる

でも、特に何も予定がなくて、今すぐやることもない人にとっては「19時」という時間(現象)には意味を付けることができない

もちろん、それでも人は「19時」ということに対して、「起きてから12時間経っているな」とか、「いつもだったらテレビ見てる時間だな」とか、「あと、1時間後には晩ご飯を食べようかな」みたいな感じでなんとかして何がしかの意味をつけている

明確に頭で思考しなくても、無意識下では「19時」に対して何かしらの意味づけ・評価・解釈をしているのだと思う

でももし、このような何気ない無自覚の意味づけも含めありとあらゆるすべての意味付けをやめたら、つまり、「19時」に対して何の意味も見出さなければ、

そこにはもはや、「時間」は存在しないのではないだろうか

逆言えば「時間」というのは意味づけしてはじめて存在できる概念であり、従って人は「時間」という概念を取り入れることによってはじめて物事に意味づけができ、評価・判断・解釈ができるということ

だからもし、「時間」に対して意味づけが行われなければ、この世の全てに対する意味づけがなくなるのではないだろうか

つまり、「時間」という概念の消失は、「世界」という概念の消失

「時間」が消失すればそこには何の意味づけもされていない「あるがまま」の世界が広がっている

だから、そのような意味では「いま」と言っている限りそこには時間の概念がある訳で、その「いま」さえも消えた時に本当の「あるがまま」が広がる

あるいは、「いま」ということについて、「過去」や「未来」に対する存在としての「いま」、つまりは「過去」や「未来」という概念があることによって認知できる相対的な意味での「いま」ではなく、それらとは無関係の絶対的な意味での「いま」に至ることがイコール「あるがまま」ということなのではないだろうか