苦しいな


死にたいわけじゃないのに

死にたいって思うのは何でだろう

なんて考えてしまうんだ

本気で死ぬ勇気なんてないのにな


車が走っているのを見ると

不意に飛び出したくなる時があるよな

もちろんそんなことはしないけどな


心の中はいつもどろどろした感情ばかりだな

 
何で人は差別するんだろうな

何で弱い者を見て笑うんだろうな

きっと自分たちが生きている世界しか知らないからだろうな

世の中にはいろんな人がいるんだ


生きる意味なんてわからないのに

延々と考えてしまうんだよな




昔から集団に馴染めたことがない。

学校の先生は「みんな仲良くしなさい」と言う。

私は人の群れが苦手だ。

女子の集団は特に。

女はすぐに群れたがる。


一人でいることは寂しいことか?

友達がいないことは寂しいことか?

時々、私は自問自答する。


一人は楽だ。

一人は自由だ。


集団からはみ出した者は孤立する。

それはいけないことか?


周りと違っても、普通じゃなくても、それでいい。

人に何を言われようと「私は私」でいい。





私は子どもの頃、誰にも助けを求められない人間だった。


母子家庭だったので、母親は仕事が第一優先の人だった。

父親がいないのだから仕方がない。

学校で嫌なことがあっても、担任の先生にも母にも誰にも言えず、一人で耐えていた。

長女だからというのもあるかもしれないけれど、母に甘えた記憶もない。

一人で何とかしなければならない。
誰にも頼れない。
迷惑をかけられない。

私は無意識のうちに「良い子でいなければならない」と、思い込んでいたのかもしれない。

勉強はまあまあ普通にできたし、周りから見れば「大人しくて手のかからない良い子」という認識だったのだろう。

手のかかる子はすぐ目にくつので、先生たちも手を焼いていた。

特に何の問題も起こさなかった私を、心配してずっと見ていてくれる先生はいなかったと思う。

心の中で苦しんでいても、それを伝えなければ誰にもわかってもらえない。

学校でほとんど話せず、ずっと苦しんでいたことに気づいてくれる先生はいなかった。


しかし、高校の時に私は恩師と呼べる先生と出会うことになる。

このブログ記事に何度か書いたことのある、部活の顧問だった先生だ。


学校に良い思い出がほとんどなかった私は、卒業アルバムを見返すことなんて、まずない。

昔を思い出しても、覚えているのは嫌な記憶ばかり。

しかし、苦しい時や悩んだ時などに、高校の卒業アルバムを見返すことがある。

写真は見ない。
見るのは、先生たちから書いてもらった言葉だ。

私のことを気にしてくれている先生は何人かいたけれど、恩師からのそれを読み返すたびに、私は泣いてしまう。

もっと早く出会えていたら...と思うこともあるけれど、私を見つけてくれた恩師にはとても感謝している。


「自分を理解してくれる人が、一人か二人いればいい」

今相談している先生から言われた言葉だ。

私がスラスラと喋れなくても、言おうとしていることがわかるらしい。

カウンセラーだからできることだと思うけれど、尊敬しているとても良い先生だ。

出会えて良かったと思っている。


私は以前に比べたら話しているらしい。

自分ではあまりわからないけれど、ずっと見ている人は気づいているのだ。


多くの人に理解を求めることは難しい。

しかし、自分を理解してくれる人は必ずどこかで現われる。


そういう人に自分の思いを話していくことが、自分を変えていく上で大事なことなんだと思う。


今すぐに自分を変えることはできない。

少しずつ話せるようになってきている自分に自信を持って、私は前に進みたい。




こんばんは。


このブログを読んでくださっている皆さん、いつもありがとうございます。


久しぶりの更新になりますね。


こえのブログが投稿できるようになったということで、やってみようと思います。

というのも、最近思うことがあって、


今の自分を変えていきたいんですよね。


自分の殻を破るためにはどうしたらいいんだろうなって、今まで色々と考えていたんですが...


声を出す訓練をしようと。


私は人と上手くコミュニケーションが取れなくて、ずっと悩んでます。


声を出すことに恐怖心があって、自分の声を人に聞かれることが怖い。


話している自分は、自分ではないように思えてしまう。

こういった感覚は、なかなか普通の人には理解してもらえないんですが...


私が話しても驚かれないんですよね。


自分が話した時に、相手にどういう反応をされるのか怖かったんですけど、


それって、私の思い込みだったことに気づいたんです。


というわけで、


声を出す訓練と話している自分に慣れるために、声での発信をこれからぼちぼちやっていこうと思ってます。


それでは初回はこの辺で。


最後までお聴きくださってありがとうございました。



場面緘黙ではない人たちにとって、話すことは普通のことなんだなと日々感じています。


場面緘黙は理解されない病気です。

話したくても話せない
声を出そうとしても出ない

これらの感覚は緘黙当事者にしかわかりません。

普通の人たちが感じる、言いたいことが言いにくい、言えないのとでは訳が違います。


全国には大人になっても場面緘黙が続いている人たちや、二次障害などで苦しんでいる人たちがたくさんいます。

私の症状はまだ軽い方だと思っています。

家族とは普通に話せるのに、それ以外の人とは全く話せない人もいます。

話さないと周りからはどうしても大人しいイメージを持たれてしまいます。

それでも場面緘黙の人たちの性格は人それぞれ。

話したくない訳でも、わざと話さない訳でもありません。

話せないのは病気だからなのです。

自分の意思で話す、話さないを選択できないことはとてもつらいことです。

自分の体なのに自分でコントロールすることができないのです。


大きな声を出そうと思っても、それができなくて悩んでいる緘黙当事者や経験者の方は多くいると思います。

私もその一人ですが、声を出すことは場面緘黙の人たちにとってはとても怖いことなのです。

声が小さいせいで、一回では聞き取ってもらえないことが多いです。

聞き返されると、やはり自分の声の小ささを痛感します。

声が小さいと言われたり、聞き返されたりすることはそれほど気にならなくなりました。

それが自分にとっての普通で、慣れてしまったからかもしれません。


聞こえない
もっと大きな声でしゃべってよ

これらのことを言われるとやはり傷付いてしまいます。

それができたらどれだけいいか。

できないからこれほどまでに悩んでいるのです。


話せないこと以外にも、喜怒哀楽の感情を表に出すことができません。

自分を出せない。

全部自分の中に押し込められます。


「これは本当の私ではない」

緘黙のせいでどれが本当の自分なのかもわからなくなってしまいます。


場面緘黙の認知度はまだまだ低いと思います。

もっと知名度が上がること。
周りの理解が進むこと。

同じ苦しみを抱えている人たちが少しでも救われますように...