天河弁財天に参拝しました。

 


東寺は翌朝も伺い、御影堂で生身供に参加してまいりました。で、今回の旅のご縁ではじめて般若心経に興味を持ったという不束者。

 

御影堂で毎日かかさずに行われている東寺の生身供

こちらのサイトの説明がわかりやすかったです

1200年つづくアチューンメントとも言えます。

御旅庵さま 東寺朝参り・生身供 

弘法大師に毎朝、一の膳、二の膳をお供えする儀式。

 

 

30分ほどすると、左側に若い僧がやってきて

読経が始まりました。中央のご本尊に対している僧も、その後方に座している年長と思しき僧からも読経は聞こえてきませんでした。それまで、客席を陣取っている衆生の方々が歌うような調子で真言和賛と、弘法大師和賛を唱和していましたが。

 

左の聖の方が読み始めて、なるほど衆生と仏のまじりあい➡統合、といった感じになり、肝が据わりました。

 

衆生の方々の和賛・読経は、無の境地というよりは日常の慣習であり「これを行っている私は偉くて清い」みたいな波動が入っているように感じられ。いったいどう交ることができるだろうか・・と思案して聞いていましたが(和せないのに和するのも失礼かと思い)僧の読経がピンときましたので、聞こえるか聞こえないかの声で、お坊さまの般若心経に唱和させていただきました。そのあと独特な節回しの地元信者さまの読経にも唱和させていただきました。

 

古都京都、重要文化財、国宝、歴史的建造物、仏教の由緒ある古寺、だったとしてもなにをどう感じるかは、本人次第ですね。三次元的な欲求で体験しようとしたことを深く反省いたしました。

 



さて、弁財天ではいろいろございましたが、本殿で祈祷を受ける朝にお祓いを受けたときの、光の在り方のみを掲載いたします。


御鏡を本尊として神がやどり、山・木々の神霊光が上面から、と参列者全体を覆い尽くして流れるホイップクリーム状の神の歓喜の光雲。神主さまが毎日無条件の愛をもってご祈祷くださるので、これだけの光がやってくるのです。

 

 

今回の旅は、いったい、自室に上の方々が来てくれるが、私には、聖地に行く意味があるのかどうなのか、という点である意味挑戦でございました。

 

結論から申し上げる。

聖地にいらっしゃる神々は、日頃私の自室にいらっしゃる方々と同じ存在たちでした。


基本的に上位の存在たちはみな同じです。

 

聖地、聖水、なにがしかの媒体(本尊や、仏像、神像)など、それなくして、神々とつながれないのであれば、真の巫女・神官にあらず。神とつながれるものは、なにもなくとも、最高位の神々と繋がります。そしてそうであることが日常です。以上 

 

で、別に、真の巫女である必要はないわけです。しかし、真の神につながることや、その神々がなにを考えているのか、興味のある人はほぼいない、と感じられることが、私には口惜しく。

 

スピ業界では、真の神につながれると感じさせてくれるモノを販売するわけです。本尊や神仏像につながれる、そのかわりとなる小さな媒体を売る。

聖地でもそれが行われている状況がずっと続いています。神社で売られているお守りの類は、神社庁(国)が認めているアチューンメント媒体、ということになります。で、それが悪いわけではない、わけです。私たちの生活の中で日常となり、誰しもが容易に受諾できる、神とつながることのできる身近な媒体。

 

そして、きっといまの状況下では、みなさんは

「神の真意や真の姿」よりも、慣れ親しんだ身近な媒体の方が好きなのでしょう。


スピに携わる方々でさえそうですから。一般の方に期待するのはむなしさを感じます。

 

ええとたぶんこれって、敬愛する宮崎駿さんが、「ファンタジーを幼児の柔らかな脳に、毎日与えてはならない、ビデオは、年に一回、特別な日の視聴だけでお願いしたい」と願っていても、

現実の世界で、作品に関わる物販業が成功して初めて、次回作の制作費を稼ぐことができていた、物販なくして作品の制作はムリだった、ということ。そのとき感じていたであろうジレンマを思い出します。巨匠でさえそうだったのです、私のような小物がなにをかいわんやですね。