祭儀で割愛したあいさつ文を記録に残しておきます。
喪主に変わりまして挨拶させていただきます。
長女のumikaです。
本日はお忙しい中、寒い中、父の祭礼に
ご参列いただきましてまことにありがとうございます。存命中はたいへんお世話になりました。
父の生涯を少しだけ振り返らせてください。
山形上杉の家老の家に生まれ、お嬢様育ちの母親ではなく、お女中さんと乳母に育てられたどちらかといえば、ひ弱なおぼっちゃまだった父は、数え9歳のとき職業軍人だった父親を亡くし家督を継ぎました。
そのとき、母親に、
「おかあちゃまを家に置くと、言っておくれ」と言われたそうです。
9歳でこれをいわれる立場になるのは、結構キツイと思います。小学校2・3年生ですから。
その後は、苦労の連続でした。
2人の妹のうち一人が日本脳炎にかかり3歳くらいの知能になって
そのときはお女中さんをやとってなかったようなので、家は不衛生だっただろうと思います。
妹さんは雨天だと気圧の関係のせいか普段よりもおかしくなる
葬儀の際、
また、お嬢様育ちの母親は戦後でスナックを経営したのですが、つかいの坊やにいれあげて、切るの別れるの死ぬのと、
中学から浅草の雷門2丁目で新聞配達をして、
鈍いですよね。
大学のころには、たくさんのアルバイトを掛け持ちして、大卒の初任給の2倍は稼いでいたといっていました。
しかし、そのつけは結婚のときに回ってきて挙式後「
母から、自分の貯金から父の奨学金を支払った話を、
早稲田大学グリークラブOB会の合唱の活動は父の人生を豊かに彩
仕事に忙殺されていた時期も、時間を捻出して練習に参加し、演奏会の檀上に立ちました。
十年ほど前の演奏旅行を仲間たちと楽しんでリラックスしている姿
また、花入れのときにかける曲は、同窓の磯部俊さん作詞作曲のクラブ愛唱歌「遥かな友に」です。父の愛した曲でみなさまに見送っていただきます。きっと喜ぶことでしょう。
昨日くらいから遺骨のところに魂を感じなくなったので神さまに聞いたら、別場所で錬成中、ということだ。