祭儀で割愛したあいさつ文を記録に残しておきます。

 

勾玉と鏡だそうです。私、華ドラで腰に下げてるやつに見えちゃった(笑)





喪主に変わりまして挨拶させていただきます。

長女のumikaです。

 

本日はお忙しい中、寒い中、父の祭礼に

ご参列いただきましてまことにありがとうございます。存命中はたいへんお世話になりました。

 

父の生涯を少しだけ振り返らせてください。

 

山形上杉の家老の家に生まれ、お嬢様育ちの母親ではなく、お女中さんと乳母に育てられたどちらかといえば、ひ弱なおぼっちゃまだった父は、数え9歳のとき職業軍人だった父親を亡くし家督を継ぎました。

 

そのとき、母親に、

「おかあちゃまを家に置くと、言っておくれ」と言われたそうです。

 

9歳でこれをいわれる立場になるのは、結構キツイと思います。小学校23年生ですから。

 

その後は、苦労の連続でした。

2人の妹のうち一人が日本脳炎にかかり3歳くらいの知能になってしまった。月経の世話もしたし、そこいらじゅうから拾ってくる犬と猫を捨てられず、一時期家に40数匹いたということです。

そのときはお女中さんをやとってなかったようなので、家は不衛生だっただろうと思います。

妹さんは雨天だと気圧の関係のせいか普段よりもおかしくなるのだそうですが、ある日、神田川に落ちてなくなった、ということでした。


葬儀の際、ズカズカと土足であがりこみ父の家の神だなを外に放り投げる、という暴挙を当時の創〇学会の連中がした、ということでした。日蓮さんはそんなこと教えていないと思いますが。そういったトラブルもまだ学生だった父がおさめました。

 

また、お嬢様育ちの母親は戦後でスナックを経営したのですが、つかいの坊やにいれあげて、切るの別れるの死ぬのと、いう問題になったときも、高校生だった父がいさめたということです。

 

中学から浅草の雷門2丁目で新聞配達をして、弟妹の学費を賄っていました。店長さんの信頼を得て二年目からは、集金も任されていました。大学生になって引っ越したあとも言い出せなくてやめられずにいたらしいんですが。「娘を嫁に」と言われて、やっと気が付いてやめさせてもらったそうです。


鈍いですよね。もっと前から店長さんはサインを出していたと思うんですけど。夢にも思わなかった、なんて。父らしいと思います。相手はカンカンで、それはひどく怒っていたそうです。

 

大学のころには、たくさんのアルバイトを掛け持ちして、大卒の初任給の2倍は稼いでいたといっていました。いちばんが家庭教師。その稼ぎは家計のためと、学費ではなく、合唱部の活動に当てられました。非常に活発に活動していたようです。20年ほど前、大学時代の北海道演奏合宿旅行のことを楽しそうに語ってくれました。

 

しかし、そのつけは結婚のときに回ってきて挙式後「奨学金を払ってない」ことが発覚。

母から、自分の貯金から父の奨学金を支払った話を、当時の怒りとともに何度か聞かされました。

 

早稲田大学グリークラブOB会の合唱の活動は父の人生を豊かに彩りました。

仕事に忙殺されていた時期も、時間を捻出して練習に参加し、演奏会の檀上に立ちました。


十年ほど前の演奏旅行を仲間たちと楽しんでリラックスしている姿写真をコラージュして飾ってありますので、よかったら帰りがけでも見てやってください。


また、花入れのときにかける曲は、同窓の磯部俊さん作詞作曲のクラブ愛唱歌「遥かな友に」です。父の愛した曲でみなさまに見送っていただきます。きっと喜ぶことでしょう。

 









昨日くらいから遺骨のところに魂を感じなくなったので神さまに聞いたら、別場所で錬成中、ということだ。




たぶんきっとこんな感じ
頑張れ神さま照れ


違うか。(笑)