摩多利神はどこにいったんじゃ?

ということで、この絵は


この絵の


この構図の
左下部分からのパクリでしょうね。
たぶん。


当時のチベット仏教のタンカが持つ

エレメントは日本人にはきつかったでしょうから。部分だけ、いただいてよりよく

自分たちの体力に合わせて利用する、

って日本人らしいと思います。

 

チベット仏教でマハーカーラ大黒天の眷属になったのか、と思いきや、ヒンドゥー教のあるプラーナで、アシュタバイラヴァがアシュタマトリカスと融合してのがもとにあったことがわかりました。


バーフバリでバイラヴァって出てきたような?


12世紀ルービン美術館蔵


「毘沙門天は富の神」記事の

内容を追ううちに、イヤな予感が

徐々に確信に変わっていきました。

 

中国の伏羲を調べていたときと

ある意味では同じです。

義の羊部がもつ「よい・ただしい」

という意味がいつのころからか

「犠牲」とセットになり

「犠牲はよいことだ」

に変化してしまったんじゃないか、

と思えたときと。

 

ミトラス教の牛屠り儀式

儀式に参加して神の波動に触れその

本質を理解し、崇高な精神を手に入れる。

手に入れた気高さをもって日頃の生活の

中で高潔な行動を示し、自らの変化を

天に表す。

 

すなわち、

愛と知恵をもって労働しこの世界や

自然に感謝して共生する。得た糧を

家族や仲間と分かち合い幸せに生きる。

パートナーを尊重し、愛にあふれた

家族生活を営み、みんなで発展していく。

 

これこそ神が一番望んでいることであり、

「儀式に出たから、俺とくべつ存在に

なっちゃった。から、認めろよ

なんでもいうことを聞け 」

 

では本末転倒です。儀式に出ない方がいい

し、神さまががっかりして帰ります。

 

ですから

「供物を備え、人間が代々決めてきた

 やり方にのっとって、動物や人間の犠牲を

 出せば」

神は願いをかなえてくれる、なんて大間違いもいいとこです。

 

習わしで選んだ、過去の遺物を

信奉しつづけたがために、

収穫物を供え、動物や人間を犠牲にすれば、神は許してくれる。きっと願ったことは、叶えてくれる。

 

思い通りにならないなら、もっと供物と犠牲を出すしかない。というのは、

「苦しめばなにかがきっと叶うかもしれない」

という信念体系の始まりかもしれません。

「苦しまなければ」「苦労しなければ」


これから冥王星水瓶座時代、この信念体系を若い世代はもってないし、押し付けたら、つきあってくれなくなるだろうと思います。

 

森・植物・土地の精であったインド神話のクベーラは、功績から永遠の命を与えられ財の神にまでなり、ヴェーダ時代夜叉のリーダーだった彼は中国仏教の体系に組み込まれた時、近隣国や多様な民族との緊迫した関係のために自然と護国神となり戦士の姿をとった。 


その姿は人間が作り出した概念と創作物であって、神の姿ではありません。

 

その像のおかれた場所には、個々に見るべき充実したストーリーが溢れていることでしょう。しかし粒子をみるものとしてひとつの視点からお伝えしておきます。


毘沙門天は人間側が概念で作り出した存在であり、神から直接出てきたものではないでしょう。もともとは水や植物の精霊だったのですから。

 

像そのものに宿るのは、神ではなく、

制作者の魂であり、人前にさらされて以降は

目前で願いをかけた人々の、その都度その

都度の念の集合体です。

 

人間の念を、神と呼ぶこともできます。

上の方々は、真実、人間のどのような感情も

「清らかで神性がある」というのです。

そういった観点からいえば、たくさんの

人々が場合によっては千年かけて抱いてきた

念の欠片のあらゆる段階の寄せ集めでさえ、

そうだといえるのです。そればかりかこの世のものの全てが神の姿だと言えるでしょう。

 

人がなにか神像を目前としたとき

望むのは、像に宿る神性でしょう。

神は、この世や他者の幸せを願って

祈りを捧げるときその心根に宿ります。

 

物でも像でもない。

あなたの心に宿ったものがあなたの

呼び出した神なのです。

 

像は、呼ぶ出す人を助ける媒体になりますし、神が自らの存在を知らしめるときに利用することもあります。

 

私は基本的になにかの像はほとんど

苦手ですが、

いくつもの時代に生み出された作品を

美術・工芸品として鑑賞すること、

制作者・管理者の縁や言われに豊かな

物語をみいだすことは大いに有意義だし、

それを静かに楽しみたいものです。