前回まで 摩多羅神は 七母天であり、摩多利は母という意味である。七母天の由来であるドゥルガーは牛に化身したアシュラを制圧した。ミトラス神の本質のひとつ「悪魔の化身である牛を制圧する」点で同じである。
疑問❷ 七母天を眷属した閻魔さまの由来であるインドのヤマの妹は関係してないのか?
日本において七母天は閻魔の眷属になりましたが、閻魔とはヤマというインドの神が仏教に入った姿であり、ヤマも牛を座騎にしています。そればかりか、ヤマは青い肌をした冥界王であり、父親は太陽神なのです。
エジプトのオシリス神的ですね。
国境や海を越え時代の変遷に飲まれて姿や立場を変容させても、摩多羅神に関連している神々は、ミトラス神の牛屠りの儀式と本質的に合一している面を持つ、といえるでしょう。
インドのヤマはこの姿ですが、
牛を座騎とするヤマ
チベット仏教における、ダルマと合一し自身がそのものになって牛=獣性を降伏している姿
ヤマのダルマラージャチベット17世紀作品
仏画における閻魔天も牛を敷いています。
醐醍寺 鎌倉時代の焰摩天像 穏やかさが日本的ですね
ヤマは人類の始祖であり死の国の主とされており、双子(つい)にヤミーがいますが、ヴィシュヌの化身とされるクリシュナの8人の妻(アシュタバーリヤ)のひとりです。ここから想像して、その8人のアシュタバーリヤが七母天に変わったのかもしれない、と思い調べました。
クリシュナの8人のパートナー
というのも、8人は、女性の多面性・豊かな感情・成功した恋愛と結婚・心身両面の豊穣を物語り、その姿は幸福な結婚を想像させます。自身と娘たちの幸せな結婚と豊穣は古代の母親の望むところだったでしょうから。しかし、こちらも七母天と同一という決定的要素はありません。
残虐性を帯びるドゥルガーは創造神ブラフマーがなしえなかったアスラ退治を成し遂げた、
‘ヒンドゥー教で最も崇拝される女神。通常、宇宙のエネルギーと力とみなされているため、女神SAKTI(シャクティ=力)とも呼ばれている。彼女はまた、宇宙を変える力を表すため、MAYA(マヤ、幻想エネルギーと発音)でもある。’ 百度百科より难近母=ドゥルガー
翻訳引用
と中国では言われているのです。
閻魔天となったヒンドゥーの太陽神の子ヤマ、の妹とその幸せなクリシュナの妻仲間たちという、どちらも女性の力と幸福を表す多面性・多様性という点で7人の母と結びつくのかについて考えましたが、こちらも決定的な繋がりは見つけられませんでした。
しかし、ヤマの妹は、クリシュナの8人の妻のひとりカリンディと同一視されていて、アシュタバーリヤにはカリンディと同一視されているミトラヴィンダという女性がいるのです。その名Mitravintaは「高潔な人」という形容詞として知られ、ミトラと綴りが同じであり、ミトラスとの相似点がここにもありました。
神々の数の多さに少々あきれましたが、調べるほどにヒンドゥーの神々は牛を座騎にしており、その形態は日本にも伝わっています。牛を食べない宗教であり、同時に神々が平素から牛を調伏する姿をしているのがヒンドゥー教です。
そして天台宗で七母天と同体とされた大黒天の元の姿は、牛ではなくシヴァの子ガネーシャを調伏しています。
主神に等しいシヴァの子を敷くことで、仏教がヒンドゥーを上回る次元で受容吸収しヒンドゥの神の在り方を力としたのだ、という意味になります。ただ単にやっつけていうことを聞かせた、ということではないのです。
脱線して横から見たおかげでドゥルガーとヤミ―からは、女性の力が創造神をもしのぐ点や、女性の感情の多様性を大量の女神を派生させて尊重したいんだ、という神の願いを理解することができました。
そこに七母天との明確な合致は見られませんでしたが、
神がとにかく「牛(貪欲)をしたに敷きたい」ことはよくわかりました。まるでそれにアッカンベーでもするように、アシュラは蛇の首根っこ、いえ胴を摑まえていますね。
マイソール市チャームンディ丘のマヒシャ
実際にはブラフマーを崇め信奉することで、自身の残忍性を降伏し、マヒシャは1段階上の精神性(霊魂の品格)を会得した、という意味で以下の能力をブラフマーから授かった、ということです。
''マヒシャはアスラ神族であるにもかかわらず、デーヴァ神族であるブラフマー(梵天)に対する瞑想を行うなど信心深く、 結果としてブラフマーから
「如何なる男や神にも敗北しない能力」を授かった。''
以上ウィキペディア
そして、神々の多さに正直うんざりしましたが、時代の変遷と人種・文化の多様性に神様があわせてくれた、と解釈することにします。上の神さまは純粋すぎて、5次元の悪党は貪婪すぎるのです。おかげで神々の物語が溢れているのです。
粒子を視るチャネラーとしていえることは、
「たった一つの感情でも、その人の魂です」
ということです。
ですから、感情ひとつひとつを個性として「神格化」したため、ヒンドゥーの神は山のようにいるわけなのです。神は、一人の個性どころか「あなたの感情があなたの魂そのものなんだよ」って言っているのです。
しかし、これではピンとこないでしょうから、わかりやすくいいますね。
あなたが誰かの能力に嫉妬したとき、お相手にも似た種類の嫉妬がある場合、あなたの嫉妬はお相手さんにちゃんと届いています。どういうことかというと、魂粒子としてくっついています。たいていは第五チャクラにくっついていますので、相手の体内=エネルギーボディにあなたの魂の名札がついた粒子が入り込んでいる、ということです。
その魂粒子がくっついっているのが、見えるので、・・・イメージで擬人化したものではなくて、体に入り込んだのが見えるので言えるわけですが・・・ほんのちょっとした嫉妬・・妬みや嫉みや怒りでも、相手に届いてくっついていますよ、相手が同じ種類の感情を持っている場合に限りますが。そういう感情を真に卒業した人には入りません。
そこから考えれば、あなたが相手の幸せを(不安や心配ではなく)心から真に願ったら、その感情も届いています。相手がよほど勘が良くない限り気づくことはたぶんないでしょう。
それでもいいではありませんか。
確実にあなたの思いは相手のエネルギーフィールドのそばで、高波動として存在しているのです。それはいつか相手を助けることになるでしょう。
粒子を視るチャネラーとして保証します。三次元的において気づかなくても、相手の魂は気づいています。しかし、今の時代、自身の魂としゃべれる人は日本で数百人いないでしょう。たいていは、感情体か、思考体か、メンタル体か、それ以外の現実を廻している人格と話しているはずです。けれども、肉体というアバターを離れたとき(死んだとき)、あなたの思いに相手は気づきます。「この人そんなこと、あのとき祈ってくれてたんだな」ってね。
結論に達しませんでしたが、サプタマートリカーという女神集団が、七母神の由来です。つづく