ひきつづき文字を追います。

  前回


これは、

人が神(8次元以上の高位高次存在)

の教えを実践して高波動になることで、

「高潔に喜びをもっていまを生きる」

という、マインドフルネスそのものの

概念を、

 

「カミのために犠牲になることは

素晴らしいことだ。だからじゃんじゃん犠牲になりなさい。犠牲になることは美しくて正しいことだよ」


という


「犠牲は素晴らしいから、

どんどん働きなさい。死にものぐるいで。おまえたちが殺している羊たちのようにね。おまえたちが羊を殺すほどに、私たちと同調しあって、結束は強くなるのさ」


というヤミ

5次元にいる単なる他星の宇宙存在)

の概念に

すり替えられ、人間たちが闇の支配下におかれた様子を物語っている

 

ことが、漢字の変遷でわかる、という推論をここに表示します。

 

結論をさきに申し上げる。

 

伏羲の、太陽神を表す「 羲 」という言葉の

構成要素である、左した部分の 兮 という文字は、本来は 生命 を 表す形を象っていた、ということです。


 商( 殷 時代 紀元前1000~  )の時代、

初出の象形文字では

 

 

👇👇👇
ウィクショナリーよりお借りしています


下部分は、まったく曲がっていなかった。この下の曲がり部分の表現は、最終的には屠られた家畜が地面に横たわっている脚を表している、という意味に変化していきました。

 

本来はまっすぐだったのです。

途中で故意に

意味を変えたものがいるのです。

改悪したものがいるのです。

 

その形は本来、

 

 ウィキメディアコモンズより


 

人間が日輪を抱いているかかげている形を表した、

いわゆる 日本語では アンク であり、兮は言葉の初出時




命 ・ 生命 を表していたのです。

日輪は物体=可視の太陽の意味と、不可視の太陽の両方の意味を持つため、不可視を意識して描かなかったのだろう、と推察します。理解が到達できず、エネルギーを巡らせる概念を持てなかったために、球体部分がつながらなかったのでしょう。


アンクは、 

アルファベット訳では、ANKhなのです。ANとカーなのです。

 

 

 カーとはプラーナが人体の

特定の経路を通った状態になった、

その光粒子をいいます。


そして、兮と同じ意味で使われていた、乎という文字。老子の和光同塵でも、同じことを別の言い方として使用されていました。 

 

 乎の象形文字



 ウィクショナリーには 乎は、

「兮の異体字」とあります。

やはり同じ意味の漢字でした。





これは、Ψプサイと同じ意味を

表現したのでしょう。プサイは、プシ 、サイ、と読んだので、シーと読んでも

おかしくないですね。


プサイという文字は人間が、背骨にそって存在している経路にカーを通している姿を表しています。

 

私がカー経路の循環瞑想を行うとき

それ以外も同じですが、アニのパピルスのように、輝く太陽を

頭上に思い描き、その光が全身を

覆いつくし、体中の経路をひたひたに

充たして巡りあふれ出て循環する、

ということをイメージするのです。

 

もともとヒーリング学校のメソッドは

古代エジプト・古代マヤの流れを汲んでいますので、

古代エジプトのヒーリングワークをするのは当然なのです。

 

ネガティビティが浄化され、

マインドフルネスになります。

 

大メタトロンが表す姿はいつでも

アンクそのものであり、高波動な存在がその性質を自ら姿で現しているのです。

 



ですから、人も自分のようであれと

アンクに顕れたのでしょう。

 

 

自ら、太陽の光を浴び、その光を体内に取り込み循環させる瞑想して喜びに満ち溢れ、今を充実して生きなさい。それがすばらしいことなんだよ、そのように生きてほしい、という神の願いが、

 


人間が闇の概念を信じて行動してしまった

 

祈らない

信じない

行動しない

他者のいいなりになる

自分で考えない

責任をとらない

恐怖を選ぶ

 

そのために、



支配従属関係が固定されたのです。

それが漢字に現れているのです。


白川静さんという巨匠が、兮と乎の象形文字を'鳴子板'の形、とリーディングしていますが、そうではない推察を別記事にあげます。