ひきつづき文字を追います。
前回
これは、
人が神(8次元以上の高位高次存在)
の教えを実践して高波動になることで、
「高潔に喜びをもっていまを生きる」
という、マインドフルネスそのものの
概念を、
「カミのために犠牲になることは
素晴らしいことだ。だからじゃんじゃん犠牲になりなさい。犠牲になることは美しくて正しいことだよ」
という
「犠牲は素晴らしいから、
どんどん働きなさい。死にものぐるいで。おまえたちが殺している羊たちのようにね。おまえたちが羊を殺すほどに、私たちと同調しあって、結束は強くなるのさ」
というヤミ
(5次元にいる単なる他星の宇宙存在)
の概念に
すり替えられ、人間たちが闇の支配下におかれた様子を物語っている
ことが、漢字の変遷でわかる、という推論をここに表示します。
結論をさきに申し上げる。
伏羲の、太陽神を表す「 羲 」という言葉の
構成要素である、左した部分の 兮 という文字は、本来は 生命 を 表す形を象っていた、ということです。
商( 殷 時代 紀元前1000~ )の時代、
初出の象形文字では
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240113/23/umikazesophia/3a/cb/j/o0965064915389149417.jpg?caw=800)
下部分は、まったく曲がっていなかった。この下の曲がり部分の表現は、最終的には屠られた家畜が地面に横たわっている脚を表している、という意味に変化していきました。
本来はまっすぐだったのです。
途中で故意に
意味を変えたものがいるのです。
改悪したものがいるのです。
その形は本来、
ウィキメディアコモンズより
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240113/23/umikazesophia/88/db/j/o0797108015389149421.jpg?caw=800)
人間が日輪を抱いているかかげている形を表した、
いわゆる 日本語では アンク であり、兮は言葉の初出時
命 ・ 生命 を表していたのです。
日輪は物体=可視の太陽の意味と、不可視の太陽の両方の意味を持つため、不可視を意識して描かなかったのだろう、と推察します。理解が到達できず、エネルギーを巡らせる概念を持てなかったために、球体部分がつながらなかったのでしょう。
アンクは、
アルファベット訳では、ANKhなのです。ANとカーなのです。
カーとはプラーナが人体の
特定の経路を通った状態になった、
その光粒子をいいます。
そして、兮と同じ意味で使われていた、乎という文字。老子の和光同塵でも、同じことを別の言い方として使用されていました。
乎の象形文字
ウィクショナリーには 乎は、
「兮の異体字」とあります。
やはり同じ意味の漢字でした。
これは、Ψプサイと同じ意味を
表現したのでしょう。プサイは、プシ 、サイ、と読んだので、シーと読んでも
おかしくないですね。
プサイという文字は人間が、背骨にそって存在している経路にカーを通している姿を表しています。
私がカー経路の循環瞑想を行うとき
それ以外も同じですが、アニのパピルスのように、輝く太陽を
頭上に思い描き、その光が全身を
覆いつくし、体中の経路をひたひたに
充たして巡りあふれ出て循環する、
ということをイメージするのです。
もともとヒーリング学校のメソッドは
古代エジプト・古代マヤの流れを汲んでいますので、
古代エジプトのヒーリングワークをするのは当然なのです。
ネガティビティが浄化され、
マインドフルネスになります。
大メタトロンが表す姿はいつでも
アンクそのものであり、高波動な存在がその性質を自ら姿で現しているのです。
ですから、人も自分のようであれと
アンクに顕れたのでしょう。
自ら、太陽の光を浴び、その光を体内に取り込み循環させる瞑想して喜びに満ち溢れ、今を充実して生きなさい。それがすばらしいことなんだよ、そのように生きてほしい、という神の願いが、
人間が闇の概念を信じて行動してしまった
祈らない
信じない
行動しない
他者のいいなりになる
自分で考えない
責任をとらない
恐怖を選ぶ
そのために、
支配従属関係が固定されたのです。
それが漢字に現れているのです。
白川静さんという巨匠が、兮と乎の象形文字を'鳴子板'の形、とリーディングしていますが、そうではない推察を別記事にあげます。