現在は皇室所蔵

唐本御影(とうほん みえい)は

聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画。聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいし および におうじ ぞう)とも称される。百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたとの伝説により阿佐太子御影 (あさ たいし の みえい)とも呼ばれる。

この肖像画が

1930年〜1984年まで使用されていた

壱万円の肖像のモデルです。


そして、二王子に関しては


2人の王子は、右前方(向かって左)が弟の殖栗皇子、左後方(向かって右)が息子の山背大兄王とされる。


以上Wikipediaの記載でした。

 

殖栗皇子は兄・聖徳太子と同じ父・用明天皇の第5皇子であり、用明天皇が587年に没された、ことから、どんなに遅くとも588年には生誕された、ということになります。

生誕年不明ですが、殖栗の同母弟、第6皇子茨田 皇子を見ますと(まんだ  みこ、敏達天皇7年(579年)生まれ、とあるので、兄の殖栗皇子は、おそくとも578年には生まれていただろう、ということになりますね。

 

一方、山背大兄王は生年不明で、従兄の入鹿の手の者に追われ自害したのが、643年です。一番早い生まれをアバウトに推測して、聖徳太子16歳のときと設定すると590年生まれになります。

 

絵の制作年数は、聖徳太子が没した622年から100年あとの時代、と推定されています。

 

殖栗皇子と甥にあたる山背の年齢差は、最小でも10年程度はあった、ということになりますので、山背が10歳のときには、殖栗皇子は20歳くらいです。 小父・甥が童子として同時に両脇に立つのは年代でいえば無理ということになります。

Wikipedia小父と甥設定は無理そうですね。

 

一方、この絵には、唐時代の図画集の影響の指摘があり、その図画集はボストン美術館の所蔵されています。が、

ネットで同じものを見ることができます。

 


 日本人で詳らかにした方がいて、10帖のうち9帖が、メインとなる真ん中の大柄の人物の両脇に似たような家来(随従)と思しき2人を拝している。ということです。Wikipediaの中国語版👆に絵も載っています、確認できます。

 

 

「聖徳太子および二王子」が多くの人々に「聖徳太子」として認識されるようになった事象について読売新聞のコラム記事

が面白いです。絵にまつわるまことしやかな伝承を真実のように開示することで、法隆寺復興の意図が画策されていたのでは、と推察された記事です。


現在の専門家・歴史家は、この絵の二王子をどうみているのでしょう?


3人の配置はまるで、

一光三尊のようですね。




一光三尊 世界大百科事典より

3体の仏像が一つの大きな光背を負う図像をいう。一光とは一つの光背,三尊とは如来を中尊として,その左右2薩を脇侍とする三体一具の仏像のことである。その光背の形は舟形,あるいは1枚の蓮弁を大きくかたどったような形をしており,挙身光ともいう。この一光三尊形式の源流は中国北魏時代の仏像に求められるが,日本の作例では法隆寺金堂はに安置される623年(推古31)に造立された釈迦如来三尊像とその光背が最も名高い。

 

そして表題の肖像画ももとは

法隆寺所蔵でした 。


余談

私は腰にさげているもの=佩玉が、現在再度楽しんでいる中国ドラマの「エイラク」でよく話のネタにクローズupされるものに似ていて、とても気になります。()



 

エイラクの清朝乾隆帝の時代は、18世紀173596年で、唐は618907年ですから、1000年も離れていますが。






純妃が入内する前、富察傅恒に恋文とともに贈った飾を佩玉につけてくれたので、

思いが届いた、と

勘違いしてしまった痛いお話👇