聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画。聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいし および におうじ ぞう)とも称される。百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたとの伝説により阿佐太子御影 (あさ たいし の みえい)とも呼ばれる。
この肖像画が
1930年〜1984年まで使用されていた
壱万円の肖像のモデルです。
そして、二王子に関しては
「2人の王子は、右前方(向かって左)
以上Wikipediaの記載でした。
殖栗皇子は兄・聖徳太子と同じ父・用明天皇の第5皇子であり、
生誕年不明ですが、殖栗の同母弟、第6皇子茨田 皇子を見ますと(まんだ の みこ、敏達天皇7年(579年)生まれ、とあるので、
一方、山背大兄王は生年不明で、
絵の制作年数は、聖徳太子が没した622年から100年あとの時
殖栗皇子と甥にあたる山背の年齢差は、最小でも10年程度はあっ
Wikipedia小父と甥設定は無理そうですね。
一方、この絵には、唐時代の図画集の影響の指摘があり、
日本人で詳らかにした方がいて、10帖のうち9帖が、
「聖徳太子および二王子」が多くの人々に「聖徳太子」
が面白いです。絵にまつわるまことしやかな伝承を真実のように開示することで、法隆寺復興の意図が画策されていたのでは、と推察された記事です。
現在の専門家・歴史家は、
3人の配置はまるで、
一光三尊のようですね。
一光三尊 世界大百科事典より
そして表題の肖像画ももとは
法隆寺所蔵でした 。
余談
私は腰にさげているもの=佩玉が、現在再度楽しんでいる中国ドラマの「
エイラクの清朝乾隆帝の時代は、18世紀1735~96年で、唐は618~90
純妃が入内する前、
勘違いしてしまった痛いお話👇