枕に戻ってきた、その理由を書いておきます。

 

少し前、久々にレコーダーをつけたらlalaTVそして帝君が映ってた()

点けたの数か月ぶり、そして再放送を知りました。シンクロに驚きました。

 

最近よく繋がるのが、レディガイアこと地球、そして源ことグレートセントラルサン・・・。

 

霊感なくスピの素養もなにもなく、ただおぼつかない自己表現の先に・・いままでの足跡のはじめにいつも特定のある高次存在=大天使がいて・・・。その存在は72の違った名前を持つと伝承から世間では認識されていて、当の本人は虚構の世界の中に自身の化身を認めていた。ドラマの東華帝君もその一人・・・・。

 

ドルフィンに出会ってちょうど半年たった今、その高次存在との過去生での関係性でいくつかわかってきたこと。

 

レムリア時代指導者・・両性の光存在として

アヌンナキの頃の地球に人類のDNA情報を組み込む科学者の一員として

エジプトのネイト(水)としての意識時代

4500年前の古代エジプトの神官時代

日本の巫女時代

 

場合によって、それら記憶は私ではない誰かのものかもしれません。みんな転生するときに、否が応でも誰かの記憶のかけらを身体に纏ってくるのか拾ってくるのか・・ということが起こるのだそうです。別の魂の記憶だとしても、それは自分のこととして蘇り、苦しみや喜びをもたらされるきっかけになったりします。

 

そして、私は9次元メタトロンよりも魂年齢では年上だそうで、種々深く関わりがありました。

 

一方、ドルフィン同期で一番尊敬しているカウンセリングのプロのRちゃんの話を聞くと、スピリチュアルはファンタジーではなく・・・・スピをファンタジーと捉えるのはもはや時代遅れであり、量子力学ですべてを仮設も含め論証できるようになってきている、という話に興味しんしん。Rちゃんからドルフィンではない視点でのドルフィン手わざはすべて量子力学で説明可能だよ、とお話を聞いたりしていました。

 

私を導いた高次存在は地球では大天使と言われています。そうなるとファンタジー感がすごくなる。

しかし、自分がこの9月以降直面したことはファンタジーなんぞで片づけられることではなくて、もうぶっちゃけ「マスターも大天使たちも、全員が宇宙存在ですよ、そして私たちもね」と言いきります。

 

フワフワしたファンタジーでとらえられるようなことじゃねえだろう?と思えることがたくさん起こり、そしていまではそれが常態化しました。そのうち一つ9月末に部屋に入ってきたアルクトゥルス波動に入浴中、浴槽で遊ばれちゃった動画


水をかき回す動くアルクトゥルス波動

 

天使たちはファンタジーの中の羽の生えた脆弱な夢の存在ではありません。長年そう信じられてきたのは「空を飛ぶなら羽のあるフェアリーのような繊細で清らかな何か」だと、私たちが思いこんできたフシがあります。

彼らは繊細で清らかであることは間違いありませんが、弱弱しい消えてしまいそうな、ふんわりした存在などではありません。

それらはただシンプルに、私たち地球人類の科学が立ち遅れていることが原因で、彼らを万人が理解する技術がない、ということなのだといえるでしょう。

 

ファンタジーやスピリチュアルを低俗だと決めつけているかのエナジーで書かれた、主に男性たちの文章に、私は腹立たしさを禁じ得ないのですが。ファンタジーは下級のものなのですか?古今あまたの大作家たちが夥しいファンタジーノベルを書き、大勢の製作者がドラマや映画を紡き、読者視聴者がそれら世界を愛してきました。それのどこが、「たかだかファンタジー」なんですかね?人間たちはそこに愛や希望を見出したかったのではないですか?どうしてそれを狭量にも「たかがファンタジー」っていうのかしら?

 

私は好きになった東華を演じた俳優のガオさんと同じ考えです。

 

「そういった虚構の世界をドラマで描き自分が演じることで、視聴者が物語世界=実は今、生きているこの世を理解することの助けになるだろう、と思う」

 

 

話を戻します。

そう、高次存在も地球にいてくれる天使や男神女神たち、そして私たち地球人類も同じ宇宙の存在です。

 

そして量子力学に触れていくと「ゼロポイントフィールドってなに?」ってなります。

なんのことはないアカシックレコードなんです。つまり、源=グレートセントラルサン、ということ。

授業の初めからグレートセントラルサンの光を浴びていたのに、このことに気付いたのはつい最近。

 

そう思ったとき、

 

枕でブログ記事を書いていた頃に見た、挿入歌歌詞の自動翻訳をひどく不思議に想ったことを突然思い出しました。片仮名に訳されていた言葉・・・

 

「アカシアの木」。

 

どうみても音からとったようには見えません。もとの中国語歌詞は「相思木」なので、アカ・・とは読みません。歌は、枕上書の白鳳九の片思いの苦しさを歌った唄「縁字書」の、中間のくだり、

動画からお借りすれば「流れる月日の中で愛しさの木が生まれ、愛しさのために葉が枯れ落ちてしまう」

と訳されている部分に、登場する、「相思木」です。

 

このアカシアの木、「相思樹」には物語があります。

それは旧い故事「鴛鴦の契り」に関係しています。

鴛鴦の契り夫婦仲がとてもよいことのたとえ。
[
由来「捜神記一一」に載っている物語から。紀元前四世紀の終わりごろ、戦国時代の中国でのこと。という国に住むある男性が、美しい妻と結婚しました。しかし、その美しさに王が目を付け、
権力で彼女を奪ってしまいます。その結果、夫は自殺。妻も、「夫と一緒に葬ってください」という遺書を残して自殺しました。しかし、王はそれを許さず、二人のは少し離れて建てられました。すると、両方の墓から木が生えて一晩のうちに成長して、が絡み合うほどになりました。さらに、つがいの鴛鴦オシドリ)がやってきてその枝の上に作ったので、人々は感動したということです。そして、宋の人はこれをあわれんでその木を相思樹と呼ぶようになった。相思と言う名の起原である。

以上コトバンクより引用黄緑部分は原文訳の最終のところを付けたしました。

原文は下記

[原文]
 捜神記 巻十一 相思樹
 宋康王舍人韓憑娶妻何氏。美、康王奪之。憑怨、王囚之、論為城旦。妻密遺憑書、繆其辞曰、其雨淫淫、河大水深、日出当心。既而王得其書。以示左右、左右莫解其意。臣蘇賀対曰、其雨淫淫、言愁且思也。河大水深、不得往来也。日出当心、心有死志也。俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣、王与之登台、妻遂自投台。左右攬之、衣不中手而死。遺書于帯曰、王利其生、妾利其死。願以屍骨賜憑合葬。王怒弗聴。使里人埋之、冢相望也。王曰、爾夫婦相愛不已。若能使冢合、則吾弗阻也。宿昔之間、便有大梓木、生于二冢之端。旬日而大盈抱。屈体相就、根交于下、枝錯于上。又有鴛鴦雌雄各一。恒栖樹上、晨夕不去、交頸悲鳴、音声感人。宋人哀之、遂号其木曰相思樹。相思之名、起于此也南人謂、此禽即韓憑夫婦之精魂。今睢陽有韓憑城、其歌謡至今猶存。

 

でね、Aの木なんですが、原文では「梓」ですね。これ、自分のへたくそな二次小説の記憶なし鳳九時の名前に使おうかどうしようか悩んだ文字なのです。名前にも好まれ、木としてもポピュラーだったようだ、と判断したから。でも梓とアカシア、どこで一緒にというか入れ替わったのだろう?・・・。

 




 

検索の中で、連理の枝もでてきまして、この画像を見ると自ずと



 

こちらの伏羲氏と女禍氏を思い出しました。

伏羲氏は、東華の、東王公など数あるモデルと考えられるのでは?と言われている神さまの一つ。

 

 

夢から戻った帝君と鳳九が植えたのはこの相思樹のことなんじゃないのか?って思いました。

上図、伏羲氏がパートナーの女禍氏といっしん胴体の姿で描かれてるわけですが、クンダリーニに似ています。なので、カドゥケイオスにも似ているなあと思えてきちゃいます。

 



そして、蛇っぽい。ドラマで鳳九がNGなのが蛇でしたよね、女禍氏の座騎が確か狐だったはずで食べることもあったんじゃなかったかしら・・・だから、女禍のような起源の神の残忍性を連想させる「蛇がキライ」=「原始的な物語はもう若い世代にはNGよ!女だからってどんなに好いた強い男でも耐え忍ばないわよ!」と時流を文字に載せられるネット作家さんのセンスなんじゃないのかなあ・・と。たしか原作描写になくとも初対面のとき東華は鳳九のことを見て「美味しそう」って思った。って唐七さんがどこかで答えていた、って読んだ記憶があるのだけど・・・。

 

 

ドラマ最終では、みんながあんまり好きになれなかったはずの妃衡さんにして「着飾った嘘の姿ではなく、本音を言いあえるのが本当の愛」とまとめられちゃいましたが、

気取らずありのままでいられる関係性を築いた年の差カップル=枕の帝君&鳳九・・・

その離れることのないつがい=愛し合い補い合う仲睦まじかった夫婦が死んで結んだ相思樹に宿った鳥=「鴛鴦」と、古い昔に中国の故事から日本人が知った、いまではあまり使うことがなくなった「オシドリ夫婦」という言葉がぴったりなのかもしれません。



 

ドラマの二人も一度ならず死んで、夢から覚めた厳しい現実の中でふたたび結びあうことを選んだのですから。