明治12年8月31日は、
「大正天皇」御生誕あそばされた日でございます。


明治天皇の第三皇子として、ご生誕あそばされました
明宮様(嘉仁親王)は、他の皇子様が薨去していたこともあり、
唯一の直系後継者で有らせられ、皇太子となられます。
しかし、生来健康に恵まれず、ご入学あそばされた学習院も休まれる事が多く、
途中から赤坂離宮にての個人教育に切り替えられました。

その様な中で、川田甕江から教えを受けた漢文に興味を持たれ、以後、
ご趣味となされ、三島中洲の指導を受け創作した漢詩は1367首に上り、
歴代天皇の中でも抜きに出て優れていると言われております。
また、和歌にもその才がお有で、
昭和天皇の作歌指南役を務めた岡野 弘彦氏は、
[お出来栄えは相当なものであり「清涼さ」「透徹した描写」においては、
明治天皇や昭和天皇よりも優れていた]と評しております。

伊藤博文の奏上を受けて明治天皇は、役人に任せきりであった
嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に行うため
「有栖川宮威仁親王」を任命。
嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕うようになりました。

そして、明治33年(1900年)、公爵・九条家の節子様とご成婚あそばされました。
兄と慕える者と妻を得る事で、健康面も少しずつ改善あそばされ、皇太子時代には
全国を御行啓有らせられ、また、天皇家初めての「皇太子の外遊」にて、
大韓帝国(現大韓民国)にも訪れられております。

御行啓の際には、移動も特別編成の「お召し列車」ではなく、一般乗客と同じ
「普通列車」にお乗りあそばされ、気さくに、身分に構わず気軽に声をおかけに
なり、病院を訪れた時には、患者に声をかけ、患者が涙にむせんだという逸話も
残されております。また、早朝に宿舎を抜け出して辺りを散策あそばされたり、
前振りなく旧友宅を訪問あそばされ友人を驚かすなど、それまでの天皇とは違い
極めて身軽に行啓あらせられた様でございます。

この様な、庶民の中に入り込んで行くお姿は、
昭和天皇、今上天皇に受け継がれておりますね。
至極有難き事にございます。

「迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)」
「秩父宮雍仁親王」「高松宮宣仁親王」「三笠宮崇仁親王」と皇子にも恵まれ、
御皇族の風習とはいえ、ご幼少の頃より親元を離れ、教育係の役人に囲まれて、
お育ちになった嘉仁親王は、このご家族というものが、大層嬉しい事であったと
され、一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたと伝わっております。

そんな御優しい大正天皇であられますが、非常に近い立場にあった「原 敬」は、
その人物像を「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」
お方であったと「原敬日記」に記しています。

明治45年(大正元年)7月30日、
明治天皇が崩御あらせられると践祚なされ、元号を「大正」と致しました。


現在、
大正天皇のご生誕あそばされた日は、祝日となっておりません。
明治天皇・昭和天皇がご生誕あそばされた日の名称の変更と共に、
大正天皇のご生誕あそばされた日も祝日とするように法律を
改正して欲しいと存じます。