横須賀の戦艦(記念艦)三笠でも紹介されている「久松五勇士」
(軍艦(記念艦)三笠に訪れた時の拙ブログは→こちら)

宮古島の英雄・久松五勇士は、
日露戦争時に行われた日本海海戦に先立ち、
バルチック艦隊発見の知らせを
宮古島から石垣島に伝えた5人の若者のことです。

サバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントを見て、

海を見て、(干潮だった。)

伊良部大橋を見て、

トゥリバー廻って帰りました。

約10kmの散歩でした。
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宮古島の英雄・久松五勇士は、
日露戦争時に行われた日本海海戦に先立ち、
バルチック艦隊発見の知らせを
宮古島から石垣島に伝えた5人の若者のことです。

サバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントを見て、

海を見て、(干潮だった。)

伊良部大橋を見て、

トゥリバー廻って帰りました。

約10kmの散歩でした。
久松五勇士 概要
1905年、ロシア海軍のバルチック艦隊が極東へ向かっていた。5月23日、奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。バルチック艦隊も彼を視認していたが、龍の大漁旗と、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかった。奥浜は宮古島の漲水港(現・平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ。宮古島は大騒ぎとなった。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、松原村の垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲と、久貝原の与那覇蒲(松原村の与那覇蒲とは同姓同名の別人)の漁師5人を選抜した。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕ぎ、石垣島の東海岸に着いて、さらに30キロの山道を歩き、27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。
-wikipediaより
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