宮古島に引っ越し(と言ってもスーツケース1個と送った段ボール1個だけですが。)をしてきて
最初に向かったのは、不動産屋さんで教えて頂いた、


 
漲水御嶽(ハリミズウタキ)です。



  市指定史蹟「漲水御嶽と石垣」  指定年月日 昭和49(1974)年8月29日
 宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽である。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(中導氏)が1500年中山王府の先導で、八重山のオヤケ赤蜂征討にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備、奉納しようと警願、めでたくがい旋した戦勝記念に築いたと、忠導氏本宗家譜にでている。オヤケ赤蜂征討は賛否分かれるところであるが。石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重である。
-案内板より


       

平良市指定史跡 漲水御嶽と石垣  
     昭和四十九年八月二十九日指定
     平良市西里漲水

 宮古の創世神古意角、姑意玉二神が天下りした聖地として、古くから人びとの尊崇あつき御嶽で、ツカサヤーともよばれている。人蛇婚説話にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも注目されている。中世、目黒盛豊見親が祭政一致のまつりごとをとり、神域を定めたことから、人々の信仰心はいっそう高められたと伝えられている。
 南側の石垣は、目黒盛の玄孫仲宗根豊見親が一五○○年、中山王府軍の先導として、八重山のオヤケ赤蜂征討に参加したさい、神霊の加護を祈願、戦勝記念に築いたと、忠導氏家譜にしるされている。
     昭和五十年一月  平良市教育委員会
-案内板より




漲水御嶽(はりみずうたき 方言読み ぴゃるみずうたき)は、琉球王国
建国以前から、信仰を集めている御嶽であり、数多くの神話と伝説の舞台
でもあります。天帝に命じられた、古意角(コイツノ)という神と姑依玉
(コイタマ)という女神が、多くの神々を従え天下った場所だとされます。



18世紀の中頃まとめられた、『宮古島記事仕次』という宮古島の神話・伝説と
昔話をまとめた本によれば、地上の守護神となることを古意角が天帝に願い
出ると、天帝はこれを祝福し、天の岩戸の先端を折って大海に投げ入れ
宮古島を作ったという。その後、古意角は姑依玉と言う女神を伴い現在
御嶽のある地に降臨し多くの神々を産み育て、そして人々が繁栄を得た。
と記されています。

       

お供えの準備をされている方がいらっしゃりましたので、拝礼の許可と
作法をお聞きして、拝礼いたしました。

      

無事に宮古島に来れたことの感謝と宮古島滞在のお願いをして、
御嶽を後に「漲水石畳道」を通り、「宮古神社」に向かいました。

        

 市指定史跡 漲水石畳道  指定年月日 昭和49(1974)年8月29日
18世紀の始め、宮古の治山、土木工事が精力的にすすめられていたころ、各村むらの道路巾は2間半に拡張、改修、あるいは新設されたと伝えられている。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道も2間半に拡張され、治山事業の中で豊富に得られたであろう石を切り敷きつめたものと推定される。旧藩時代の政庁である「蔵元」南側にそって漲水御嶽前から祥雲寺北東の辻まで続いていた。廃藩置県後もほぼ完全に残っていたが、平良港築港(大正10年)、宮古神社移転(昭和17年)
にともなう工事並びに第二次大戦、ついで戦後の道路工事等で損傷、現在およそ3分の1を残すのみとなっている。
-案内板より












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