近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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お腹いっぱいで到着したのは、明智光秀が築城した福知山城です。

福知山城の縄張りは、丘陵の最先端部の一番高い所(標高35m、比高約25m)に本丸を置き、その西に二ノ丸、更に西に伯耆丸、内記丸と続く四つの連郭式城郭を形成していた。全体として東西約600m×南北約150-300mとなっている。本来は本丸と二ノ丸は繋がっていたが、明治時代に二の丸が削り取られてしまい、また伯耆丸と内記丸間も繋がっていたが、福知山線の建設に伴いそれぞれ独立丘陵となってます。

隅櫓風城郭建築の福知山市佐藤太清記念美術館


福知山城と城下町
福知山の町は、天正7年(1579)丹波を平定した明智光秀が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。
城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川・土師川、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。
丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん・税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、広く永く市民に親しまれています。
光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次、田中吉政、小野木重勝と続きました。関ヶ原の合戦後、有馬豊氏、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。 -案内板より

釣鐘門(復元)をくぐり抜けて本丸にあがります。


城郭プランと天守閣
福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木時代のものが残されています。これらのうち、松平時代(1649~1669)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。
城郭部は横山丘陵先端の地形を利用しています。東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南には堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型」(総構え)の構造となっています。丘の先端に天守台と本丸を置き、二の丸・伯耆丸(三の丸~現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。南側の低地には「御泉水(ごせんすい)」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記(ないき)丸(西の丸)が配置されていました。このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。再建された天守閣は大天守、小天守、続き櫓から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。 -案内板より

外観復元された小天守(左)と大天守

大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された近世初期の望楼型。
外観は忠実に再現されているが、構造は鉄筋コンクリート造。

石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま
利用されている方法で積まれている。石材の加工と用い方は「野面積み」、
角部の積み方は「算木積み」、勾配としては基底部は傾斜が緩やかで段々
傾斜を増していき、上部はほぼ垂直になる「扇の勾配」と呼ばれてます。
また宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、「転用石」
とも呼ばれています。一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を
破壊して石材を調達したことがうかがわれます。


福知山城石垣の転用石
福知山城の石垣には、自然石と割石に混じって五輪塔・宝篋印塔などの石塔類が大量に使用されています。もともと供養塔等、他の目的で作製された石造品が石垣等に利用されたものを「転用石(てんようせき)」といいます。現在、転用石は石垣の中に残るもの、福知山城再建時の発掘調査により確認されたものをあわせて、500個余りが確認されており、そのほとんどが天守石垣付近に集中しています。
福知山城は築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があり、これは、石垣に利用する大量の石材が近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったためといわれています。転用石の利用は石材の不足、短期の築城のためという理由の他に、旧地元勢力・権威の否定ともいわれていますが、城を守護するものという意識があったとも考えられています。
転用石で最も多いものは五輪塔の一番下の部分である地輪(ちりん・方形)が全体の65%、次いで宝篋印塔の基礎(方形)が11%余を占めています。その他、わずかですが石仏、南無妙法蓮華教を刻んだ笠塔婆、石臼、灯篭などがみられます。年号などが刻まれている石もあり、一番古いものは延文4年(1359)、もっとも新しいものは天正3年(1575)で、いずれも明智光秀が福知山に入ってくる以前のものばかりです。これら転用石は光秀の福知山城築城の様子を伝える数少ない中世資料の一つであり、資料的価値の高いものです。 -案内板より






転用石は、おおよそ500点で、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点
となっている。種類としては、宝篋印塔、五輪塔の他に、一石五輪塔、石仏、
笠塔婆、石臼等があり、これらは現在も石垣の部材として使用されてます。
福智山城以前の横山城時代の山城やその関係寺院、三岳山周辺の寺院を
破却したとの伝承があります。
つづく
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