近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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地震の影響で道路がうねっていました。

次なる目的地に行く途中、見晴らしの良いPで、ひと休み。

出雲山展望台

出雲山の由来
その昔、出雲の大国主命のむすめである下照姫命は、出雲国を出立され、羽合町宇野と泊村字谷との境にあたる字「仮屋ヶ崎」の海岸に着船された。ご休憩の後命は倭文神社の社地に住居をお定めになり、住民に安産の指導をされたが、故郷恋しさのあまり、日暮時になるとふさぎ込んだり涙したりされる日もあったという。そんな時、少しでも出雲に近づこうとの想いからか、この高台まで歩を運ぶと、遠く出雲国や出雲富士の方向に向かって何事か小声でつぶやかれていた。この姿を見た人々は命をおいたわしく思い、いつしかこの高台を出雲山と呼ぶようになったという。 この展望台に立って眺めると、東郷湖の向こうに羽合温泉や東郷湖羽合臨海公園、その向こうに茶臼山が見え、白砂青松の彼方には紺碧の日本海、西方はるかに中国地方最高峰の大山の雄姿がかすんで見える。 伯耆一円を見渡す、まさに一大パノラマの景観といえよう。
下照姫命
大黒様の名で親しまれ、因幡の白兎伝説でも有名な大国主命と田心姫命の間に生まれた神で、安産の神として知られる。
天照大御神は天孫降臨に先立ち、まず天穂日命を遣わされ、ついで天稚彦を遣わされたが、この神は下照姫と結婚して滞留したまま従わなかった。そのため高皇産霊尊の怒りにふれて天稚彦は誅せられ、その妻・下照姫のなげき悲しむ声が天にも達したという。
下照姫の兄味耜高彦根命が天稚彦の喪を弔わられたとき、下照姫は歌を詠じ、兄神の御名を顕し給うたといわれる。
湯梨浜町教育委員会 -案内板より


本日二社目の参拝は、「伯耆國一宮 倭文神社」です。


倭文神社(しとりじんじゃ、しずりじんじゃ)は、式内社で、
旧社格は国幣小社、現在は神社本庁の別表神社です。

随神門

随神門に見事な彫刻が施されています。




参道を進むと石燈籠が倒れていました。



足長の出雲構え獅子(文政二年(1819)四月吉日建立)

拝殿

ご祭神は、
(主祭神)
建葉槌命
(配神)
下照姫命
建御名方命
天稚彦命
事代主命
少彦名命
味耜高彦根命 で、ございます。


本殿(文化十五年(1818)再建)
伯耆一ノ宮倭文神社
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神)
下照姫命外五柱
一、例祭日 5月1日
一、由緒 伯耆国の一ノ宮としで御冠山の中腹に位置し広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲がら当地に移住され、安産の普及に努力された。
創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
平安時代延喜式神名帳(西暦922年)には当神社の各がみえ、神階は度々昇進し、天慶三年(西暦940年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
住古の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には東郷湖附近に点々と一ノ宮領文字がみえている。
然し戦国時代荒廃、天文23年(1554)尼子晴久社殿造営神領十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦1570年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
天正年羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬の山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬の山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享2年(1745)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲6人を附されている。
明治以降県社であったが、昭和14年国幣小社となった。
一、安産岩 神社境内に至る迄の参道横にある。
昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。
一、下照姫命御着船の地 羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御看船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになつた水が伝えられている。
一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている)
一、史跡伯耆一ノ宮経塚
(附)馬の山古墳群ば、当神社より丘続きの位置に存在する。
昭和54年3月湯梨浜町教育委員会 -案内板より

伯耆国一宮 倭文神社
御朱印
御朱印を頂く際に神職に地震の事をお伺いしたところ、参道脇の燈籠が
倒れた位で済んだとの事です。
つづく
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